開戦前、あるいは開戦直後、おもに、いわゆる「反戦平和主義」の方々から、米国の対イラク戦争が始まれば、最後は首都バグダッドで市街戦になり、大勢の民間人の犠牲者が出るという「期待」が表明されていた。田中宇「米イラク攻撃の表裏」、『週刊プレイボーイ』03年4月22日号「地獄の首都攻防戦」、それに、中東問題に関して三流紙並みのウソを平気で書くようになった米ニューヨークタイムズ紙(NYT)(小誌記事「偽善の反戦」を参照)などだ。NYTが「バグダッドは第二次大戦のレニングラードになる」と書いたのを、シュレジンジャー元米国防長官は「バグダッドを米軍が包囲すれば、凍結したラドガ湖の湖面を通って補給のできたレニングラードと違って、補給は断たれるからすぐ落ちる」と喝破し、NYTの不見識を軽蔑した(02年12月15日放送のテレビ東京『日高義樹ワシントン・レポート』。小誌「キッシンジャーらの『予測』」)。
もっとも、バグダッドを完全に包囲して外部から食糧などの補給を断てば、500万の市民が飢えに苦しむことも予想されるから、これも自称平和主義者待望の「民間人の犠牲」には違いない。
しかし、それでも筆者は、バグダッド市内で民間人の犠牲が大勢出る「泥沼」状態を米ブッシュ政権は望んでいないし、回避できると思っていた。
その方法は(現実に行われたように、米軍の圧倒的な戦力でイラク側に Shock & Awe 「衝撃と畏怖」を与えて戦意をくじくこと以外に)2つある。
1つは、小誌が繰り返し述べてきた「八百長」の可能性だ。開戦前、開戦直後、あるいは首都攻防戦の直前に、あらかじめ米国側に内通していた政府や軍の幹部、中堅将校が多数寝返って、職場放棄(またはサダムの殺害か捕獲の手引き)をすれば、米軍の楽勝となり、悲惨な戦闘は回避できる。
もう1つは「不完全包囲網」だ。この作戦は03年のイラク戦争では現実に使われることなく首都が陥落したが、このテがあるので、筆者は「泥沼の市街戦」はない、と確信していた。
●不完全包囲網●
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で織田信長が家臣の明智光秀に討たれ、翌3日、それを知った羽柴(豊臣)秀吉は、急遽備中(岡山県)の対毛利戦線の陣地から畿内(京都周辺)まで数日間で兵を戻し、畿内にいた信長の三男・信孝の軍と合流して、主君(実父)の仇討ちと称して13日、明智軍と京都近郊の山崎で合戦に臨んだ。
明智軍は即日敗北し、夜には残党は山崎近くの勝龍寺城に篭ったので、秀吉らの軍はこれを包囲した。秀吉は、鳥取城の兵糧攻めや備中高松城の水攻めでは、それこそ水も漏らさぬ完全な攻囲を行ったが、この勝龍寺城攻めでは、側近の黒田孝高(よしたか)の進言で、わざと包囲網の一角に隙間を作ったとされる(『別冊歴史読本〜明智光秀・野望!本能寺の変』新人物往来社89年刊、p.124)。
完全に包囲すれば、敵は囲みを破る以外に生きる道はないと思って死に物狂いで攻めて来るので、双方に大きな犠牲が出たりいくさが長引いたりする。
長引くと、秀吉は困る。なぜなら、北陸から柴田勝家が帰って来るからだ。織田家随一の猛将、勝家はこのとき、北陸戦線で上杉氏と対峙していたので、本能寺の変の知らせを受けてもすぐには畿内に戻れなかった。が、秀吉が勝龍寺城攻めにてこずっていると、そのうち勝家は北陸から戻ってきて援軍を申し出るだろう。勝家は秀吉と同様に主君の仇を討つべき立場にあるから、この申し出を秀吉は断れない。そして、勝家が参戦すれば「信長公の仇を討った第一の功臣」は、元々織田家中で序列が上の勝家となり、秀吉は戦後の政局で主導権を取れないことになる。
そこで、秀吉軍は故意に不完全な包囲網を敷いて、隙間から「逃げたいやつは逃がす」作戦に出た。そうすれば翌日から戦う敵兵の数は減る。翌14日、秀吉の作戦は奏効し、明智軍は城を捨てて総崩れとなって敗走した。『孫子の兵法』にも、攻囲の際は必ず敵の逃げ道を開けておけ、とあるが、これはまさに「教科書どおり」の戦法だった。
●首取り無用●
しかし、全員敗走すると、一緒に敵将光秀もそれに紛れて逃げることになる。案の定、勝龍寺城攻防戦では光秀の首はあがらなかった。
14日、秀吉と信孝はともに近江に進軍し、園城寺(おんじょうじ)に陣を敷いて明智の残党狩りと光秀の探索に努めたが、光秀はみつからなかった。
15日、信孝は、秀吉と口論でもしたのか、園城寺の陣を離れて草津に進軍し、園城寺には秀吉とその身内だけが残された。すると突然、近江の土民が「偉そうな人の首がみつかった」と園城寺に届けに来た。見てみると光秀の首だったので、秀吉はそれを京都に運ばせて市中で晒し、光秀の死を天下に喧伝したという……。
賢明な読者の方々はもうお気付きだろう。信長の後継者の地位を秀吉と争う立場にある信孝は、つまり、秀吉のもとに届いた首を秀吉の利害に配慮せずに客観的に鑑定(首実検)できる立場にあった信孝は、園城寺に首が届けられたとき、なぜかたまたまそこにいなかったのだ。
首は、おそらく光秀の首ではなくニセモノだ。が、上記のとおり、秀吉は勝家が参戦しないうちにすべてを終わらせる必要があった。もし、あくまでホンモノの首をあげることにこだわって探索を長々と続けていると、そのうち勝家の兵がそれに参加してしまう。そしてもし、秀吉の兵ではなく、勝家の兵がホンモノの首をあげれば、その瞬間に仇討ちの最大の功労者は勝家になってしまう。
秀吉は、どうしても、ニセモノでもいいから、光秀の首を取ったと宣言する必要があったのだ。
京都市中を実効支配している秀吉軍が「光秀の首だ」と言って「展示」すれば、京都の庶民は(光秀の生前の顔を見たことのある者などほとんどいないので)「たぶんそうなんだろう」と思い込む(か、または秀吉軍を恐れて疑問を口にするのを控える)。そうすれば、光秀本人は現実に生きていたとしても、もう死んだも同然となる。
【光秀の首がホンモノと信じられた理由としては、光秀とともに、首と胴を縫合したうえで死後、京都・日の岡であらためて磔にされた斎藤利三(としみつ)の存在が考えられる。利三は光秀の甥(妹の子)で、明智家随一の忠臣だが、二人のうち片方、つまり利三の首がホンモノなら、口さがない京都の公家や僧侶も(人の顔は死後硬直で変わるので)「光秀の首もホンモノだろう」と思い込んだとしても不思議はない(逆に、光秀の首がホンモノなら、単独で展示してもよかったはずだ)。】
生き延びた光秀とて、自ら「こっちがほんものだ」と名乗り出て捕まえられて殺されては損だから、もう名乗り出ず、隠遁生活にはいることになる(一説には天海僧正と名を変えて、徳川幕府の政治・宗教顧問となり、日光東照宮の造営などに尽力したと言われる。日光の近くに天海が名付けた明智平という地名があり、光秀の甥・利三の娘である春日局が、徳川三代将軍・家光の乳母に抜擢され大奥で絶大な権勢を振るったことから、日光周辺では「天海=光秀」説は信じられている)。
これで一件落着だ。光秀の首があがらなくても、あがったことにして政治プロセスを先に進めてしまえば……たとえば、信長の後継者を決める織田家の重臣たちの会議を開いてしまえば(実際に、山崎の合戦のわずか13日後の27日「清洲会議」を開催)もうホンモノの光秀が生きていても関係ない。
●「フセインほいほい」はもう要らない●
イラク戦争を指揮したラムズフェルド米国防長官やフランクス米中央軍司令官は、秀吉の名前は知らなくても(田中宇やNYTと違って)戦争の仕方は知っている。開戦後最初の記者会見でフランクスは「サダムの生死にかかわらず作戦は続ける」と言い切ったし、ラムズフェルドやブッシュ米大統領もその前後に同様の発言をし、戦争の決着前でも、戦後のイラクの暫定統治機構を発足させ「政治プロセスを先に進める」意志も示したから、彼らが秀吉と同じ「ニセ首作戦」で行く可能性は高い。
つまり、もう「ホンモノの」サダムの身柄も首も要らないのだ。米国政府周辺は「サダムの正確なDNAサンプルデータを持っていない(から、遺体をみつけても鑑定できない)」とあらかじめ言い訳のような情報を流しているから(産経新聞03年4月11日付朝刊1面)今後、サダムの遺体がみつかったと報道されても、それがホンモノである可能性は高くない。
アフガニスタンの反テロ戦争でも、米軍は、01年の米中枢同時テロを起こしたテロ組織「アルカイダ」の指導者ウサマ・ビンラディンと、彼を匿うイスラム原理主義過激派勢力「タリバン」の最高指導者オマル師という2人の「敵将」の、身柄も遺体も確保していないのだから、米軍はもう本気ではサダムをみつけようとしていないのではないか。
イラク戦争を戦う米軍にとって、山崎の合戦を戦っていたときの秀吉にとっての勝家のような、途中から参加して主導権を奪いそうな「うるさがた」の存在としては、国連の大量破壊兵器(WMD)査察団(UNMOVIC)がある。02年12月からイラク戦争開戦まで、UNMOVICらはイラク国内で生物化学兵器などのWMDを探したが、イラク政府の非協力でみつけられなかった。米国の開戦の理由は「こんな査察は続けても意味がない」というものだったから、米軍は自力でWMDをみつけるか、シリアなどの外国に持ち出されたことを証明するか、いずれにせよUNMOVIC(勝家)を参加させないことが重要になる。
いまや、首よりもWMDのほうが問題だ。もし米軍が、首にこだわっていつまで経っても停戦を宣言しないと、戦後の統治機構の本格的な稼動も遅れる。そうすると、戦後の統治に口を出したい国連や、国連を隠れ蓑に戦後のイラクに介入して石油利権や武器売却債権を守りたい中仏露などの「うるさがた」の国々がでしゃばって来る恐れがある。場合によっては、国連査察の再開もあるかもしれない。
だから、米軍首脳も、終戦を確定し戦後の統治を一気に進めるために、ニセモノをホンモノに言いくるめるという選択肢を常に用意しているだろう。「戦争は始めるより終わらせるほうが難しい」という格言は、圧倒的な力を持ついまの米軍にはあてはまらない。終わらせるのは簡単だ。
【米軍は、開戦当初は、ピンポイント爆撃でサダムの居場所を狙い撃ち、それでサダムが死んでいないとわかると「死亡説」を流してサダムがそれを打ち消すためにどこかに出てこざるをえないようにして、出てきたらねらい撃とうという、言わば「フセインほいほい」作戦を試みた。これらはいずれも、フセイン以外の罪なき人々の犠牲を少しでも減らしたいという考えによる。
ちなみに、筆者は01年秋の小誌で「タリバンほいほい」という言葉を用いた。「米軍がアフガン民間人への食糧支援を空から投下しても、その大半はタリバンの兵士が拾ってしまう」というテレビ朝日の「平和主義的な」記者の短絡的な批判に対し、「地雷の埋まっていない道筋をみつけるために、米軍が、隠れ家から這い出して来るタリバンに拾わせようとして、わざと彼らの居場所をねらって投下しているのではないか」と筆者は指摘したのだ。
米軍は「平和主義者」が批判するほど愚かではないのだから。】
●独裁者は八百長が好き?●
第二次大戦当初、独裁者ヒトラー率いるナチス・ドイツと、独裁者スターリン率いるソ連は、まるで申し合わせたかのように、双方にとっての隣国ポーランドを東西から半分ずつ侵略した。とくに「ワルシャワ蜂起」は独ソ打ち合わせ済みの「八百長」の疑いが濃厚だ。ソ連側が、侵略してきたナチスへの決起をワルシャワ市内の兵や武器を持つ市民に呼びかけて、応援を約束しておきながら、いざ市民らが蜂起したあとはソ連は援軍を送らず、彼らがドイツ軍に皆殺しにされるのを座視した。
その後、ソ連はドイツ軍をソ連領内に深々と引き入れて、多大な犠牲を出しながら撃退して押し返したが、その際、すでにワルシャワ蜂起でポーランド軍の戦力が激減していたので、ソ連はこの東欧の大国を労せずして攻略し、その後50年近くにわたって共産思想を押し付け、いわば植民地として支配し続けることができた。ソ連はドイツを「砕氷船」として利用してポーランドという「氷山」を砕き、ポーランドなど東欧に「正義の味方ただいま参上」という口実でやって来て侵略した(秀吉は光秀と共謀はしていなかったが、結果的に光秀を「砕氷船」として利用して信長という「氷山」を砕いた。小誌「砕氷船テーゼの基本定義」を参照)。
ヒトラーのおかげでポーランドを植民地化できたので、その御礼に?ソ連は大戦末期にベルリンに侵攻した際、ヒトラーを逃がした……と考えると、戦後なかなかヒトラーの遺体の所在が明らかにならなかったことが、うまく説明できるのではないか。
イラク戦争で敵に内通して米軍を楽勝に導いたイラク側の最大の裏切り者は、サダムの側近や軍の中堅将校に大勢いただろう。とくに、サハフ情報相とサブリ外相は、米軍の要人探索リスト(52名)にはいっていないので(03年4月12日正午のNHKニュース)怪しい。
が、いちばん怪しいのは、サダム自身ではないか。なぜなら、かつて80年代、サダムは米国の同盟者だったからだ(小誌「反戦広告代理店〜イラクもグル?」)。終始一貫米軍と共謀(八百長)したのか、それとも、途中まで真剣勝負で、土壇場で昔の癒着関係を復活させたのか、は不明だが、光秀と秀吉の関係より、はるかに共謀の疑いが濃い。
●国連が米軍の軍門にくだる日●
戦後の占領統治を米国の意のままに進めるため、「うるさがた」の国連や、独仏露中など、米国のイラク攻撃に反対していた国々が戦後に口出しするのを「だまらせる」プロセスはすでに始まっている。
03年4月9日、バグダッドが陥落したあと、多数の市民が政府機関などの建物に侵入し略奪を働いて、市内は無政府状態と化したが、その際ドイツ大使館や国連機関の建物も略奪の被害に遭った。被害はやがて、民間の商店や病院にも拡大し、放火や、市民同士の悲惨な争いに発展した。その被害を、市内に進駐した米軍は黙認しており、秩序回復の措置をほとんどとらなかった(03年04月10日放送のNHK『ニュース10』、12日正午のNHKニュース)。
米国は待っている、ドイツや国連やイラク市民が頭を下げて「お願いです、守って下さい」と言って来るのを。
その言葉が彼らの口から出た瞬間、国連の時代は終わり、米国主導の「イラク民主化」が始まる。国連やイラクの反米派(親イランのシーア派イスラム勢力など)は、略奪に走る市民を「砕氷船」に利用した米国の戦略に負け、その軍門にくだることになる。2003年の米軍は、1582年の秀吉と同様に、終戦や戦後処理まで計算したうえで戦っており、その手法は国連や独仏より巧みだ(次回以降に述べるが、戦後の「民主化」にも、米国は相当な勝算を持っているはずだ)。
国連よ、さらば。
■やっぱり八百長〜シリーズ「イラク戦後処理」番外編■
イラク軍の精鋭部隊とされる共和国防衛隊の(元)大佐が03年4月12日、英BBCラジオに語ったところによると、上官からは米軍の首都バグダッド攻撃には抵抗せず「隠れていろ」と命令されていた、とか。
大佐は「首都近郊の空港さえ閉鎖しないお粗末な(首都防衛)作戦だった」と軍指導部を批判したそうで、現実に首都はあっさり陥落しましたから(毎日新聞Web版03年4月13日)やっぱり、開戦前から筆者が予測していたとおり、このイラク戦争の大部分は「八百長」だったに違いありません。
この戦争を「真剣勝負」と思い込んで反戦運動に励んだ皆さん、ご苦労様でした。
m(_ _)m
■民主化広告代理店〜シリーズ「イラク戦後処理」(2)■
【前回の「終戦とサダムの首」 から続く。】
ある国で「民主化が成功した」状態とは、国民が「前より幸福」になり、それを「民主化のお陰」と思い込んでいる状態だ。国民の多様な民意を政治に反映するのが難しければ、広告・宣伝戦略(世論操作)で民意のほうを変えればいい。戦争の結果イラクを占領した米国が、イラクを「民主化」するのは簡単だ。
●難しい?反体制派のとりまとめ〜イラク民主化は前途多難か●
米軍がイラクのサダム・フセイン大統領の独裁体制を崩壊させ、対イラク戦争が終焉に近づく連れて、戦後のイラクをいかに民主化するか、という次の課題に世界の注目が集まっている。
が、サダムの独裁に追われて国外に亡命して活動してきた反体制(民主)派にはまとまりがない。
イラク国民会議(INC)のチャラビー代表は米国防総省の支持を受けているが、イラク国内で知名度が低いうえ、ヨルダンで元銀行家として有罪判決を受けたこともあるので、米国務省と米CIAは難色を示している(産経新聞03年4月7日)。
INCのほか、サダムに毒ガス攻撃などの苛烈な弾圧を受けてきたクルド人たちは親米派だが、クルド人勢力はクルド民主党(KDP)とクルド愛国同盟(PUK)に分裂し、対立している(毎日新聞Web版02年10月17日)。
この対立は95年から悪化したという。この年、米CIAの支援を受けたクルド人反体制派諸勢力はイラク北部で一枚岩に団結してサダムへの武装蜂起を試みた。が、当時のクリントン米政権が、イラクの混乱を恐れて土壇場で支援を中止したため、諸勢力は絶望から内紛に陥り弱体化した。そこへ、翌96年サダムの政府軍が侵攻してきて、CIAが育てたクルド人民兵たちは徹底的に討伐、虐殺された(03年3月2日放送のNHKスペシャル『アメリカとイラク』)。
ほかに、立憲君主運動(CMM)、イラク国民合意(INA)も親米派だが、他方、反米的な反体制派もある。
イラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)は、イラク国民の6割を占めるシーア派イスラム教徒の組織で「反米親イラン」だが、シーア派にはほかにもいくつか組織があってまとまっていない。また、米国が戦後政府の指導者に担ごうとしていたとされる、パチャチ元外相が、03年2月に立ち上げたイラク民主独立会議(IID)は、開戦直前に「米軍の軍政には反対」と表明している(産経新聞03年4月13日付朝刊2面)。
このように、戦後のイラク民主化を担うべき反体制派がばらばらなので、「前途多難」という予測が、日本でも米国でも多い。独裁政権が抑えていた国内の民族・宗派対立が、戦後に一気に吹き出す恐れがあり、それを抑えて国内を平和裏にまとめて民主化を成功させるにはまだまだ時間がかかるだろうし、それができないと米国は本当に戦争に勝ったとは言えない、と朝日新聞は指摘する(03年4月10日付朝刊2面、社説「試練はこれから」)。
が、戦前に戦争の泥沼化を予測し反対を表明していた朝日新聞や米ニューヨークタイムズ紙(NYT)、米ABC放送などの思惑はみごとにはずれ、米国は開戦後たった3週間で首都バグダッドを陥落させている(産経新聞03年4月12日付朝刊3面「予測ミスの"戦犯"追求」)。となると、朝日新聞などが戦後の民主化も「泥沼化する」と予測しても、説得力はない。米軍の戦争遂行能力を見誤った者が、戦後の軍政統治能力(の欠如)だけは正確に予測できる、というのは、奇妙ではないか。
●「とりまとめ」にわざと失敗?●
世界中で大勢の記者や論客が戦況の予測を誤った最大の理由は、バグダッドを南北から挟み撃ちにするために、イラクの北のトルコから南下するはずだった米陸軍の精鋭、IT化されたハイテク装備を持つ「虎の子」の第4機械化歩兵師団が、トルコ議会の対米戦争協力決議の否決によりトルコにはいれなかったことにある。
このとき、米国の外交の失敗で、米軍はイラクの南のクウェートから北上する第3歩兵師団らに過度に依存した地上戦を強いられた、と世界中が思い込んだ。3月末頃には、クウェートから延び切った同師団の補給線がイラク側のゲリラ攻撃で寸断されれば米軍は苦戦し、戦争は長期化するという予測も飛び交った。
が、これは情報戦の一環だった。米軍は4月9日、トルコ入りを諦めてクウェートから北上してバグダッドをめざすことにした第4機械化歩兵師団の到着を待たずに、バグダッドを陥落させた。つまり、米国は「トルコとの外交交渉が失敗して『虎の子』が使えなくて、そのうえ補給線が延び切って苦しんでいる振り」をして、イラク軍を南部の砂漠地帯などにおびき出して攻撃し、ほぼ壊滅させたのだ(『週刊新潮』03年4月10日号p.28、志方俊之・元陸上自衛隊北部方面総監の意見)。つまり米国政府は、「虎の子」をトルコ経由で投入するための外交交渉をわざと失敗していた可能性が高いのだ。
となると、イラク反体制各派のとりまとめに失敗している現状も「わざと」かもしれない。
テネット現米CIA長官は、実はクリントン前政権の時代の97年からその職にあり、CIAはここ数年ずっとイラクの反体制派やクルド人勢力と接触を保っている。現ブッシュ政権が誕生してからの2年間もそれは続いているから、この間CIAが、98年米議会で制定された「イラク解放法」に基づいて、反体制各派の調整と育成をまじめにやっていれば「とりまとめ」はできたのではないか。
日本では知られていないが、米CIA長官は同時に Director of Central Intelligence (DCI、中央情報官) という肩書きも持つことになっており、単にCIA(中央情報局)の長であるだけでなく、NSA(国家安全保障局)や国防総省傘下のDIA(国防情報部)や国務省傘下のINR(国務省情報調査局)など、米国の全情報機関の最高責任者でもあるのだ(斎藤彰『CIA』講談社現代新書85年刊、p.42)。
だから「国防総省(DIA)と国務省(INR)が、反体制派のだれに戦後の暫定政府を任せるかで対立している」というのはおかしな話だ。CIA長官はDIAもINRも率いているのだから、両省の意見を一本化するぐらい、難しくはない。 CIAが権限も時間も十分にありながら、反体制各派のとりまとめに失敗したのは、戦前の対トルコ外交の失敗と同様に「わざと」だろう。では、その理由は何か。
●弱体諸派の「調整役」としての米国●
まとまらないと、強力な指導者は出ない。
が、まとまると、完全に民主化したイラクが、戦争で大勢のイラク人を殺した米国への恨みという民意に従って、反米的な政策をとる恐れがある。米国は、イラクを拠点に中東で何かしたいなら、反体制各派がまとまらず、強力な民主的政権がなかなかできない状態にしておいたほうがいいのだ。
弱い指導者が何人も集まって、戦後のイラクをどうすべきか、と「小田原評定」を続けていれば、イラク国民は(第二次大戦敗戦後の日本国民のように)自分たちは民主主義も軍事的勝利も自力では実現できない、劣った国民だ、と「自虐的に」思い込む。
すでに米国務省傘下の国際開発局(USAID)は、イラクの「教育の民主化」作業を、米国の教育研究企業に発注し、サダム時代の教科書を書き替えることを決めている(産経新聞03年4月13日付朝刊4面「復興まずは"教育"」)。米国は日本の戦後統治でも、戦前から使われていた日本製の教科書を「墨塗り」し、戦前の日本的価値観の全面否定を行い、子供たちに「米国流がいちばん正しい」という教育を施し、日本を親米国家に造り替えた実績がある。
●イデオロギー無用●
イラク人の民主化勢力がまとまらず、暫定政府が弱い間、イラク人の最大関心事はなんであろうか。愛国心? 反米ナショナリズム? イスラムの価値観?……とんでもない。経済だ。
イラク国民はサダムの独裁時代は国連の経済制裁でかなり貧しい生活を強いられ、イラク戦争後は、空爆による破壊や、体制崩壊に伴う治安の悪化(略奪や放火の横行)で、食糧、水、電気、医療、それに安全が十分に手にはいらない事態に直面した。いまイラク国民に必要なのはシーア派の教義をよく理解したイスラム指導者でも、イラクの国民感情を汲む愛国者でもない。当面、イラク国民は「真の民主主義」には興味がない。
援助食糧を配り、水道や電気を復旧し、病院を暴徒から守り、治安を回復してくれる政府であれば、米国の傀儡であろうがなかろうが、どうでもいい。まずは「経済生活の向上」だ。
●簡単にできる「民生の安定」●
しかも、生活を向上させるのは難しくない。イラクは中東で唯一、石油と水を両方とも豊富に持つ国だ。国連の経済制裁を解除して普通に貿易を始めれば(戦前の生活水準が低すぎたため)それだけで米国は労せずしてイラク国民の生活水準を「劇的に」向上させられる。もちろん、油田など石油関連施設の復旧やさらなる開発で外貨を稼げば、もっと経済は向上する。だから、米国がイラクで、イラク国民の生活を救う「救世主」になるのは、元々簡単なのだ。
そして、生活水準が向上すれば、米軍がいても、あまり強い恨みは感じなくなる。戦後政策への「民意の反映」も最重要事項ではなくなる。英国統治下の香港は何十年も、民主主義(参政権)のない状態が続いていたが、ポルノ映画をノーカットで見られるほどの言論の自由と、経済的繁栄があったので、香港市民は「侵略者」である英国に対して民主化要求などしなかった(香港が非民主的な共産国家である中国に返還される間際の90年代になって、英国は突如民主化を始めたが、それは香港市民が望んだというより、英国が返還後の香港に影響力を維持するための子分、香港民主党を作りたかったからにすぎない)。
元々豊かだったイラクが湾岸戦争後、米国が主導する国連経済制裁と03年の戦争で貧しくなり、その2つが終わって元に戻るなら、それは米国の「マッチ・ポンプ」であり、イラク国民は米国に感謝などする必要はない。 が、「サダム独裁時代は貧しく、いまは豊か」「イラク戦争後の治安の混乱を収拾してくれたのは米軍」という既成事実ができると、イラク国民は「米国のお陰で民主化された」と錯覚する。とくに、米国と一線を隠したアラブ独自の視点で報道してきたカタールの衛星放送アルジャジーラのバクダッド支局が、戦争末期に米軍の「誤爆」を受けて閉鎖に追い込まれたことの意味は大きい。これで米国はイラク国内に流れる現地語(アラブ語)のメディアをすべて統制下に置き、イラクで(終戦直後の日本と同様の)世論操作が可能になった。
●たすきがけ買収●
親米勢力が分裂していても、反米勢力が存在していても、べつに問題はない。米国が反体制各派を残らず親米派にすることなど元々できない。むしろ、イラクに言論の自由や民主主義があることを「証明」するために、米国は反米派を育てるだろう。この「たすきがけ買収」による、親米民主化は、戦後の日本でみごとに成功しているのだから。
敗戦後の日本がとるべき防衛政策は「武装して米と同盟」「武装して米から自立」「武装中立」「非武装で米に依存」「非武装中立」など何通りもありえた。ところが、米国は戦後の日本に、非武装中立を意味する新憲法(9条)を押し付けたうえで、戦時中日本政府に投獄されていた左翼勢力を解放し「反米派」として育成した。
中ソ共産勢力が軍拡を続ける中、両国に近接した日本のような大国が国を守るのに「非武装」という選択肢はありえない。しかし、フランス型の「武装自立」やスウェーデン型の「(重)武装中立」では、米国が日本を基地として使えなくなるので困る。そこで、米国は日本の左翼を誘導して「非武装中立」を唱えさせ、武装自立や武装中立を説く現実派には、おもに左翼を使って「軍国主義者」のレッテルを貼らせて排斥した(このため、戦後半世紀近く日本の主要大学には地政学など軍事戦略をまじめに研究する講座がまったくなく、逆に非武装論を研究する無駄な講座が乱立した)。かくして、多様なはずの民意は「武装同盟(日米安保条約容認)」と「非武装中立」の2つに集約された。
米国は、日本の左翼から非武装中立に基づく安保反対論を、戦後数十年間浴びせられるが、そんなものは痛くも痒くもなかった。なぜなら、そんなバカげた政策は絶対に実現しないからだ(現に50年以上実現していない)。米国がみごとなのは、日本社会党(社民党)の土井たか子ら日本の左翼に「利用されている」ことをほとんど気付かせなかったことだ(左翼を「砕氷船」にして右翼の武装自立論を葬った)。かくして反米世論は無力化され、米国は日本の軍事基地を維持することに成功した。
このテはイラクでも使える。
すでに「イラク版日本社会党」「イラク版土井たか子」も用意されている。開戦直前に(表面上)反米派に鞍替えしたIIDとパチャチ元外相だ。
戦後の治安が悪化する中「米軍の軍政反対」を主張するのは、ソ連の脅威を前に「非武装中立」を説くのと同じで、絶対に実現しない(から米国は困らない)。すでに、バグダッドでは「米軍出て行け」と叫ぶデモも(やらせ?で)始まったというから(03年4月13日放送のNHK『海外ネットワーク』)「反米勢力の育成」は順調に進んでいるようだ。
03年現在のイラクも第二次大戦後の日本も、民主化されるタテマエなので、米国は反米派(の言論)を根絶やしにすることはできない。しかし、反米派を「バカぞろい」にすることはできる。それは日本社会党などの例に見るごとく、かなり簡単なのだ。
●民主化広告代理店●
米国などの先進諸国には広告代理店という業種があり、少し前まで消費者が見向きもしなかった商品(や選挙公約)を、メディアを駆使して大勢の人がほしくなるヒット商品に仕立て上げ「市場」に浸透させる手法はさまざまに開発され、実用化されている。人の心はいくらでも「操作」できるのだ。
上記のごとく、米軍は、第二次大戦当時からすでに高度な世論操作能力を持っていた。が、その後ベトナム戦争の反戦報道を制御できずに米国内の反戦世論の台頭を許し、その結果撤退を余儀なくされ、戦争に負けてしまう。
その後、ベトナムでの反省から、米軍は、将校たちを一流大学に送り込んでマスコミ論の学位を取らせ、世論を米軍支持に導く手法を研究させた。その成果は、91年の湾岸戦争と03年のイラク戦争で「悲惨な映像をほとんど報道させない」という統制テクニックに結実し、世論の高い支持を獲得した。
米軍には、新聞記者よりはるかにメディアの使い方に長けた将校が大勢いる。だから、イラクの戦後統治でも、実現不可能な政策(軍政反対)を掲げる無能な勢力を培養し、イラク国民に「自分たちには『反米』も主張できる言論の自由がある」「サダムの時代と違って、いまは民主化されている」と思い込ませて、反米世論を「ガス抜き」するぐらい朝飯前だ。
イラクの「民主化」は必ず成功する。
【「イラク戦争」や「米国の人口戦略」については次回以降随時(しばしばメール版の「トップ下」のコラムでも)解析します。
次回は「シリア」の予定です
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