全員がプロ野球選手で構成される、04年アテネ五輪野球の日本代表(長嶋JAPAN)は、プロ野球オールスター戦直後の04年7月13〜14日、キューバ五輪代表を迎えて五輪壮行試合を2試合行った。
が、この2試合はプロ野球ペナントレース後半の再開直前で、投手陣の登板間隔が詰まっていたため、日本側は五輪代表の全投手を登板させたわけではなく、なんと社会人野球の投手数人を補強して登板させた。
もちろん日本側は、五輪本番でキューバ(との決勝)戦に登板予定の左腕投手・和田毅(ダイエー)を出すことはできない。つまり「手の内」は見せられないのだ。
キューバ打線の特徴を把握する、という目的はあっただろう。が、日本打線の特徴も当然キューバ側にわかってしまうわけで、はたして、こんな社会人の手まで借りないとできない壮行試合など、やる必要があるのか、と当時筆者は不思議だった。
長嶋茂雄・五輪代表監督は、金メダルを取るために絶対必要なこととして、長期間(なるべく2週間近く)の直前合宿とキューバとの壮行試合の2つを強く要望し、関係者に働きかけて実現させていた。
合宿はわかる。02年シドニー五輪で米国五輪代表は、大リーガー抜きの二流選手集団だったにもかかわらず、直前の2週間の合宿が奏効して優勝したのだから(小誌04年8月5日「最強と一流の違い」)。だから、日本もアテネ五輪本番直前、04年8月5日からイタリアで長期合宿をするのだ。
しかし、なぜ上記のような中途半端な顔ぶれで行う壮行試合がそんなに重要なのか……その理由は、アテネ五輪サッカーの本番予選L(リーグ)「日本対パラグアイ」戦を見て、わかった。
●ぶっつけ本番●
23歳以下(U23)で構成されるサッカー五輪代表(山本JAPAN)では、山本昌邦・代表監督は、五輪本番で3人まで認められる、23歳を超える年齢の、OA(オーバーエージ)枠の補強選手の1人に、オランダのクラブ、フェイエノールトに所属するMF小野伸二を熱望した。
が、フェイエノールトと日本サッカー協会の交渉は難航し、小野の五輪代表チームへの合流はなかなか実現しなかった。
このため山本JAPANは、五輪本番前の04年7月、チュニジア、韓国、豪州の五輪代表、ベネズエラA代表を相手に計4試合も壮行試合をしたにもかかわらず、小野は一度も参加できなかった。この結果、司令塔の小野と、他の選手との連携を実戦でテストし確認する機会が一度もなかったのだ。
そして04年8月12日(日本時間13日)、五輪本番予選Lの初戦、パラグアイ戦がやって来る。
山本は合宿(と練習試合)の成果に基づき、小野をトップ下に起用した。が、競技場の芝が直前に刈り込まれて不慣れな状態になった(刈り込まれたあとの、参加各国チームの競技場での練習が禁止された)こともあって(blog版臨時増刊「●得点の多い競技場」)、日本は前半で守備のミスを犯し、失点を重ね、前半終了時点では「1-3」とパラグアイにリードを許した。
そこで、山本は試合の後半から布陣を変更し、トップ下にはMF松井大輔を入れ、小野をトップ下からボランチにさげた。すると、ようやく小野と他の選手との連携がスムーズになり、日本は後半では「2-1」と挽回した。が、時すでに遅く、合計「3-4」で敗れた。
筆者は唖然とした。
なんと、山本JAPANは、本番のパラグアイ戦の前半を、壮行試合の代わりに使ったのだ。これでは勝てるわけがない。前半の「テスト中」に3点も取られたのでは、いかに後半から「前半のテスト結果をふまえた」新しい布陣がうまく機能したとしても、もう取り返せない。
これは長嶋JAPANとあまりにも対照的である。
筆者はパラグアイ戦を見ながら思い出したのだが、野球日本代表は、キューバとの壮行試合で内野守備の連携をテストしていたのだ。
04年五輪本番に臨む野球五輪代表の内野陣には、03年のアジア地区予選には参加していなかった中村紀洋三塁手(近鉄)、金子誠遊撃手(日本ハム)、藤本敦士遊撃手(阪神)の3人が新たに加わっており、彼らは他の選手との連携プレーに慣れていなかった。
そこで、壮行試合の指揮を執った中畑清監督代行(ヘッド兼打撃コーチ)は、中村に一塁、金子に三塁、藤本に二塁と、それぞれ本来の守備位置と異なる守備位置を守らせてテストした。
この結果、中畑は「藤本二塁手」を合格、「中村一塁手」「金子三塁手」を不合格と判断したのだろう。五輪本番直前のイタリア合宿中の練習試合(相手はイタリア・プロ野球選抜)の段階では、藤本を二塁手、中村を三塁手に固定し、金子は一塁の守備固めに起用して「最終確認テスト」をし、そのまま15日の本番予選Lの初戦、イタリア戦に臨んでいる。
球技で選手間の連携を確立するには、野球でもサッカーでも、本番前になるべく長期間の合宿が必要であることは、すでに小誌で述べたとおりである(前掲「最強と一流の違い」)。
が、山本JAPANでは、小野と他の選手との連携を試合形式でテストすることは、五輪直前のドイツ合宿中の、8月6日の練習試合までできなかった。そのうえ、この練習試合の相手は独リーグ「ブンデスリーガ」3部のユースチームで、弱すぎて、日本側が圧勝(7-0)してしまったため(日刊スポーツ04年8月7日付1面)、壮行試合(実戦テスト)としては意味がなかったようだ。
もしも、事前に韓国五輪代表などを相手に、小野が参加した状態で壮行試合をしていれば、パラグアイ戦では試合開始当初から小野はボランチだったかもしれない。そうなると、パラグアイ戦前半の3失点はなかったかもしれない。
第2戦のイタリア戦に負けたのは仕方がない(相手が強いのだから)。が、初戦のパラグアイ戦は後半、「前半のテスト」でダメとわかった布陣を棄ててからうまく行っただけに(そして、これに勝っていれば予選Lを突破した可能性が高かっただけに)もったいない。
●「メダル」と「金メダル」の差●
戦前、山本は(68年メキシコ五輪以来36年ぶりの)メダルをねらうと公言していた。
が、長嶋は(メダルでなく)金メダルをねらうと公言し、球界もファンもそれが当然と思っていた。まるで、サッカーにおけるブラジル(五輪)代表のように、長嶋JAPANは「金メダル以外許されない」立場に追い込まれていたのだ。だから、長嶋は「壮行試合と直前長期合宿を絶対にやらせろ」と関係各位に強く要求し、実現させたのだ。
他方、金メダルでなく、単にメダルをねらう(銅メダルでもいい)と言っていた山本はどうだっただろう。
山本は(統計資料をもとに?)五輪本番、8月のアテネの(最高)気温が、7月の沖縄県・石垣島のそれとほぼ同じであることを知り(04年8月8日放送のNHKスペシャル『アテネへ〜山本監督と若きイレブンの挑戦』)、7月6〜12日には五輪代表候補選手を石垣島に集めて合宿を組み、選手には昼間から練習をさせて五輪本番の、30℃台の暑さに慣れさせつつ競わせた(朝日新聞Web版04年7月6日)。
ところが、五輪本番予選Lの3試合はすべて夜に行われるため(また、初戦の会場は、アテネではなく、ギリシャ北部テッサロニキのカフタジョグリオ競技場だったため)、試合開始時刻の気温は20℃台と、かなり涼しかった(04年8月12日、パラグアイ戦直前のTV現地リポートで判明)。こう言っては気の毒だが、山本のまぬけなの事前調査のため、暑さ対策はすべて無駄になっていたのだ。
これに比べて「金メダルをねらう」長嶋の事前調査は徹底していた。
おそらく五輪本番のある8月をねらってスタッフがじっさいに現地に行って調査したのだろう。長嶋は1年以上前から、五輪本番の試合開始時刻をすべて把握し「予選L 7試合中5試合が炎天下のデーゲーム」と確認していた。
野球の場合、試合会場は1か所(ヘリニコの野球センターのみ)で、そこの昼間の(グランドでの体感)気温は40℃になる。そのような炎天下で5試合も戦うことは、30代後半の「高齢」選手には耐えられない……03年の時点ですでにこの点を把握していた長嶋は、03年のアジア地区予選の段階から、五輪代表選手は、30歳前後かそれ以下の、若い選手で構成すると決めていた。
【だから、国際経験豊富でリードもうまいと定評のある古田敦也捕手(ヤクルト)を長嶋が五輪代表に選ばなかったのは、古田の年齢(04年の五輪本番では39歳)のせいであって、古田が労働組合「プロ野球選手会」の会長として球界首脳に「生意気な」発言をしているから、ではない。】
おそらく、8月のギリシャの気温がもっと低ければ、あるいは本番予選Lにデーゲームが5試合もなければ、長嶋は、マウンド上で投手が窮地に陥ったときの「救世主」として、古田を選んだだろう。が、本番の気象条件から逆算して、かなり早い段階で古田をあきらめ、「与えられた条件のもとで最善の布陣をする」ことを1年以上前から決めていたのだ。
これとは対照的に山本JAPANは、五輪代表の合宿や壮行試合を何度も行ったにもかかわらず、その都度、代表候補選手同士を競わせ、新たな救世主の出現を待望した。このため、04年7月半ばの五輪出場選手登録(エントリー)締め切りまでメンバーが固定されることはなく、したがって、代表選手同士の連携の確認はあとまわしにされた(「連携」の重要性については前掲「最強と一流の違い」)。
【ちなみに、サッカー韓国五輪代表は、04年7月の日韓親善(壮行)試合の段階で、OA枠の選手を全員召集し、選手間の連携をテストしていた。】
しかし、山本JAPANにはなかなか救世主は現われなかった。結局、山本はOA枠の小野を救世主と期待したが、小野の所属クラブと日本サッカー協会との交渉はエントリー直前までまとまらなかったから、これはまさに「神頼み」のような、不確実な救世主だった。
長嶋JAPANが早々と古田をあきらめ、城島健司捕手(ダイエー)や宮本慎也遊撃手(ヤクルト)ら6人の野手を、絶対確実に五輪本番に動員できる救世主(チームの柱)として確定していたのと比べると(前掲「最強と一流の違い」)、山本JAPANの「小野頼み」は……フェイエノールトとの交渉を円滑に進められなかった関係者の非力も含めて……酷な言い方だが、なさけない。
●サッカー後進国●
どうしても「36年ぶりのメダルをねらえ」というのなら、日本のサッカー関係者は(韓国がそうしたように)、五輪直前(04年7〜8月)のアジア杯サッカーを捨てて、来る来ないかわからない小野ではなく、より確実に五輪に動員できる他の選手……たとえば、アジア杯にA代表の一員として出場したMF中村俊輔(伊セリエAレッジーナ)をOA枠で五輪代表の救世主にしてもよかったのではないか。
それが(A代表の強化のために)できない、というのなら、五輪でメダルをねらうのをあきらめるか、松井らU23の若手のなかから司令塔を育てるか、の2つに1つしか選択肢はなかったように思われる。
長嶋JAPANとて、必ずしも恵まれた条件のもとにあったわけではない。とくに、04年の五輪本番では03年のアジア地区予選と違って(ペナントレース中のため)「12球団各2名ずつ」の枠がはめられており、代表選手を自由に選ぶことができず、苦労した。
が、その限られた条件のもとで、長嶋はできることはすべてやった。とくに主力選手全員がそろった状態での壮行試合と直前長期合宿は「絶対に必要なこと」として実現させた。だから、これで金メダルが取れなくても、それなりに納得できる。
他方、山本やサッカー関係者は、およそ「できることはすべてやった」とは言い難い状態だ。組分け抽選の結果(韓国人のFIFA幹部のせいで?)不利なB組「死のグループ」に入れられたのは仕方がないが(小誌04年8月10日「開催国と共謀?」)、それでも、フェイエノールトとの交渉など、グランド外のマネージメントの問題で悔いが残る。
●野球を見習え●
パ・リーグ6球団が恒常的に赤字で、球団数が合併によって削減されようかというプロ野球は(小誌04年6月28日「シリーズ『球界再編』〜●三流親会社追放」)、スポーツビジネスとしては、ここ数年球団(クラブ)数も観客動員も増え続けているサッカーのJリーグよりはるかに劣る。
が、「世界と戦う」ことに関しては、長嶋の執念深さは、山本や他のサッカー関係者のそれをはるかに上回っており、まさに「ブラジル並み」だった。
やはり、ブラジルが「サッカー先進国」であるように、日本は「野球先進国」なのだ。
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