04年5月22日の、小泉首相の再訪朝の際、平壌の空港で出迎えたのは、北朝鮮の外務次官だった。これは外交儀礼に反する「格下」の官僚なので、重村智計・早大教授は「小泉(日本)はからかわれた」と判断した。が、それを聞いた評論家の田原総一朗は「日朝国交正常化をしたがってる北朝鮮がそんなことをするはずない!」と激昂した(04年5月23日放送のテレビ朝日『サンデープロジェクト』)。
たしかに国交正常化すれば、日本から北朝鮮に1兆円規模の経済協力(援助)が渡ると予想されるから、それほしさに北朝鮮が国交正常化を望んでいる、という推測は成り立つ。が、それは激昂するほど自明なことか?
●国交正常化の意味●
北朝鮮は中国や英国と国交を結んでいるが、それは庶民レベルで自由な交流がある、ということではない。北朝鮮は、旅行の自由を含めて自国民の人権をほぼすべて否定する恐怖政治を続けており、国交もしょせん金正日(キム・ジョンイル)総書記の独裁体制を維持するための手段の1つにすぎない。
だから、北朝鮮が日本との国交正常化を望むとすれば、国交正常化後の日本からの援助ほしさによるのは間違いないが、逆に国交正常化しなくても援助が得られるなら、べつに国交など必要ない。
現に北朝鮮は韓国と国交を結ばずに韓国から援助を得ている。韓国は、金大中(キム・デジュン)前大統領以来ずっと北朝鮮に宥和的な「太陽政策」をとり、北朝鮮による「韓国人拉致問題」を追求しないなど大甘な姿勢で援助を続け、五輪開会式での「南北同時入場行進」などの友好姿勢もとっているが、それでも国交はない。
04年4月に北朝鮮の、中国との国境に近い竜川(リョンチョン)で大規模な列車爆発事故が起き、死傷者が数百人出た際、韓国は医薬品などの援助を申し出、南北の軍事境界線(事実上の国境線)を越えて陸路で援助物資を運び入れたいと主張した。が、北朝鮮側は陸路を拒否し、船で竜川に近い港まで運ばせた。また、韓国は医師や技術者などの人的支援も申し出たが、北朝鮮はそれも断った(04年4月27日放送のTBSニュース、共同通信Web版04年4月26日)。
これは「援助はほしいが、外国の人(や情報)がたくさん来るのはイヤ」という北朝鮮のホンネを表している。独裁国家・北朝鮮は、東独などかつての社会主義諸国と同様に、外国との人や情報の出入りを厳しく制限する「鎖国体制」で成り立っている。北朝鮮国民が「外にはもっとよい国がある」とめざめたりすれば、89〜90年の東独と同様の体制崩壊(国家消滅)に至るであろうことを、北朝鮮政府はよくわかっているのだ。
●実は建設族のため●
かつての金丸信・副総裁から野中広務・幹事長に至る、歴代の自民党政治家(建設族議員)が日朝国交正常化を望んで来たのは、正常化後の経済協力でゼネコンを儲けさせるためだ、と重村は指摘する(04年5月29日未明放送のテレビ朝日『朝まで生テレビ』)。
経済協力はODA(政府開発援助)の形をとるので、その使途は日本側が決められる。北朝鮮には、軍事用にも使える道路や鉄道の整備など、自前の資金や技術では困難な土木工事案件がたくさんあるので、日本側は援助する際には、日本のゼネコン(大手建設業者)が工事を受注できるように指定できる「ひも付き援助」にすることは間違いなく、そうなると、建設業界から自民党建設族に献金が渡ることも間違いない。
●分割払いがおトク●
これは必ずしも北朝鮮にとって望ましいことではない。北朝鮮国民は「日米などの資本主義諸国では国民は(北朝鮮より)苦しい生活をしている」とウソを教えられて育っているのに、日本から優秀な技術者が最新鋭の器材を持って大勢来て、国土のあちこちをほじくり返す、などという光景を北朝鮮国民が見たら「日本のほうが経済力も技術力も上なのか」と気付いてしまう。韓国からの緊急援助物資の陸送ですら断った北朝鮮政府が、こんなことを許すはずがない。
たしかに日朝国交正常化で北朝鮮が手にする援助は莫大だから、ここ数年経済が破綻状態の北朝鮮はそれをほしがるはずだ。が、正常化しなくても、04年5月22日の、小泉首相の再訪朝と日朝首脳会談の結果、北朝鮮は拉致被害者家族5名(蓮池夫妻と地村夫妻の子供)を日本に帰すと同時に、食糧25万トン(日本の国産米なら500億円、外米や他の穀物でも100億円以上に相当)と医薬品1000万米ドル、という人道援助を得た。
つまり、北朝鮮は事実上、拉致被害者数名と交換で数百億円の「身代金」を得たのだ。
日本の拉致被害者「家族会」や「救う会」「拉致議連」は、いわゆる特定失踪者まで含めると、北朝鮮による日本人拉致事件の被害者は数百人と推計し、かつ「拉致事件の完全解決まで日朝国交正常化は許さない」と言い、世論の支持も得ている。
それなら「完全解決」まで10年ぐらいかけて、毎年数名ずつ拉致被害者を「発見」して帰国させれば、その都度数百億円の援助が得られる(たとえば、500億円×10年=5000億円)という計算が、北朝鮮側には成り立つ。
実は、北朝鮮はこれで十分なのだ。北朝鮮の鎖国体制をゆるがしかねない1兆円のODAプロジェクトを国交正常化後に「一括」で決めてもらうよりも、拉致問題の真の解決と国交正常化を永遠に先送りして、その間に毎年数百億円ずつ「分割払い」で援助をもらうほうが……援助を求める理由が元々、国家体制の維持であることを考えれば……北朝鮮政府にとっては、いいに決まっている。
●焦る日本政府●
上記のように、自民党の建設族には日朝国交正常化を求める理由がある。
また、田中均・審議官ら外務官僚にも「国交正常化」という外交の「晴れ舞台」に立ちたい野心がある。
さらに、小泉にも、詐欺罪に該当しかねない自らの厚生年金違法加入疑惑(小誌「シリーズ『年金政局』(2)」を参照。04年6月1日放送のテレビ朝日『スーパーモーニング』は「時効の成立していない詐欺罪」とも紹介)を隠蔽するために、国民の目を国交正常化という外交的成果に向けたい事情がある。
【また、04年7月に参院選を控えた与党・自民党にとっては、中央社会保険医療協議会(中医協)をめぐる汚職事件(日本歯科医師会(日歯)前会長らが贈収賄で起訴)が多数の自民党国会議員(古賀誠、加藤紘一両元幹事長など。産経新聞04年6月1日付朝刊28面)におよぶ懸念もあり(別の報道では「建設族」のドン、青木幹雄・参院自民党幹事長の名も取り沙汰されているので)、これも他の大ニュースでカモフラージュする必要があった。】
つまり、急いで日朝国交正常化をしたい、という動機があるのは、北朝鮮でなく日本政府(小泉と自民党と外務省)なのだ。重村が言うように、北朝鮮が小泉をからかったとしても不思議ではない。
●第三国ルール●
5月22日の首脳会談で、金正日は小泉の足元を見て「3家族8名」の帰国を「2家族5名」に値切り、拉致被害者・曽我ひとみさんの家族3名(脱走米兵の夫・ジェンキンス氏と娘2名)の帰国を阻止した。
ジェンキンス氏は「日本に行くと、米国に身柄が引き渡されて、軍法違反で訴追されるから」と日本への帰国(移住)をいやがり、金正日は小泉に「北京(中国)など第三国で曽我さん一家が再会して(今後一家がどこに住むかを)話し合ってはどうか」と提案した、と報道されているが、これはおかしい。北朝鮮のような独裁国家では、個人は自分の意志で外国に行きたいとは言えないし、逆に、金正日に命令されれば行きたくなくても日本に行くのだから、これは明らかに金正日による「帰国妨害」だ。
しかも金正日が自ら北京と言った意味は大きい。外交の世界では「サードパーティ(第三国)ルール」という不文律があり、この場合、中国(第三国)と北朝鮮は事前に打ち合わせている(そうでないと中国に失礼)と見るのが常識だ(産経新聞04年5月26日付朝刊2面「拉致交渉に中国の影」)。
中国も、北朝鮮ほど下劣ではないが社会主義国家なので、西側先進諸国ほどには人権を尊重しない。中国は、国連人権規約のうち、言論の自由など日本ではあたりまえの権利を定めた部分を批准していない「人権後進国」であり、政治犯が裁判なしで強制収容所に送られる国だ。そのうえ中国は北朝鮮の同盟国で、北朝鮮の人権抑圧には寛大だ。
もし曽我さんと家族3名の面会が中国で行われるなら、当然家族3名には北朝鮮から「監視要員」が同行する。もちろん、それは家族3名(場合によっては曽我さん本人までも)が都合の悪い言動をとった場合に拉致または殺害するためだ。
そのような犯罪は先進国では許されないが、中国のような人権後進国では許されうる。北京など中国国内で面会した場合、家族3名は監視要員に怯え、曽我さんに本心は言えず、ひたすら「北朝鮮で暮らそう」と言うだけだ。
短期間で曽我さんが家族3名を説得することは不可能だ。結局、日本で04年5月22日に、蓮池夫妻らがわが子と再会するニュースを見せ付けられた曽我さんは耐え切れなくなり、自分の家族と暮らすために、いやでも北朝鮮に戻ることを選ばざるをえないかもしれない。
●北京なら幕引き●
曽我さん一家再会の場所が中国国内なら、中国政府は曽我さん一家に「短期間で解決を」と圧力をかけ、彼女を北朝鮮に戻そうとする恐れがある。そして、ほんとうに彼女が戻ってしまったら、彼女の「自主的な選択」を根拠に「拉致問題は解決した」と、北朝鮮政府は主張するだろう。たとえば、
「たしかにわが国(北朝鮮)は大勢の日本人を拉致した。でも、将軍様(金正日)の政治がすばらしいので、曽我さんは自分の意志でわが国に戻って暮らすことを選んだのだ」
という具合である。
こうなると、北朝鮮は横田めぐみさんら死亡・行方不明とされている拉致被害者10名の(うち何名かの)「生存情報」を出す際にも「実は彼女も曽我さんと同様に、自主的にわが国で暮らすことを選んだ」と主張でき、以後、拉致被害者はだれ1人として永住帰国できない(許されるのは、寺越武志さんのように、監視要員付きでの一時帰国のみ)となる。これで、拉致問題は(北朝鮮側から見て)「完全解決」だ。
【石川県の寺越武志さんは63年、13歳のとき、乗っていた漁船とともに行方不明になり、以後北朝鮮で「金英浩」の名前で育てられた(「寺越武志さん拉致事件隠蔽」)。彼は成人後「朝鮮職業総同盟」の一員として来日したり、日本に残した母親のほうが訪朝したりして、たびたび家族との再会を実現しているが、来日中も常に北朝鮮の監視要員に見張られ、北朝鮮の体制を賛美する言葉しか言わない。が、一度、母親に「どうやって(拉致されて)北朝鮮に来たのか」と問われて、寺越さんは(盗聴を警戒して)無言でうなずいたことがある(産経新聞03年1月5日付朝刊1面「寺越さん拉致濃厚 母との面会で示唆 顔見つめ無言でうなずく」)。】
しかし、このように拉致問題を「完全解決」(したことに)したいという動機は、北朝鮮よりもむしろ、小泉にこそあるのだ。
●小泉 vs. 曽我ひとみ●
曽我さんは抵抗した。
小泉の意を受けて彼女に会った杉浦正健・官房副長官が勝手に「会談場所は北京でもいい、と政府に一任された」と報道陣に語ると、彼女は即座にそれを否定する声明を発表し「北京以外」を強く希望した(産経新聞04年6月1日付朝刊3面)。
「救う会」の佐藤勝巳・現代コリア研究所長によると、曽我さんを含め「家族会」のメンバー(と拉致被害者本人)は驚くほど勉強熱心で、北朝鮮の体制や人権弾圧・脅迫の巧妙な手口、それを取り巻く国際情勢などを知り尽くしている、という(佐藤の、03年6月28日の、都内での講演)。
【02年5月、中国・瀋陽の日本総領事館に亡命を求めて駆け込んだ北朝鮮難民5名を、中国の武装警官が総領事館に不法侵入して連行した事件(共同通信Web版02年5月9日「亡命者連行事件」)があったが、曽我さんは02年10月に帰国したあとこの事件を知って「中国は怖い」と再認識した、という。】
曽我さんは中国が人権抑圧国家であり北朝鮮とグルだと見抜き、自分の身柄を北朝鮮に渡してでも拉致問題の「幕引き」をはかりたい、という小泉の悪意を察知した。だから、杉浦の発言を覆して「北京再会」を拒否したのだ。
小泉は、拉致問題や中国の人権状況に無知で「うっかりミスをした」のではないかもしれない。
5月22日の首脳会談後に、(米国の訴追を防ぐ)権限もないくせに、ジェンキンス氏に「訴追・拘束されないことを保証するから日本に来てくれ」と説得(するフリ?)をしたことに端的に表れているように、北朝鮮から「国交正常化交渉開始」という成果が得られるなら、曽我さん一家など北朝鮮に売り飛ばしてもいい、という冷酷非情な態度で終始一貫していたようにも見えるのだ。
拉致問題の「幕引き」をいちばんしたがっているのは小泉だ。だから小泉は、横田めぐみさんら死亡・行方不明とされている10名の拉致被害者の正確な安否情報の提出(北朝鮮政府による「再調査」)に期限を付けなかったのだ。なぜなら、正確な安否情報とは要するに「数名生存数名死亡」であり、その「死亡情報」(要するに、誘拐殺人)は日本の世論を怒らせ、国交正常化交渉を停滞させるからだ(前回「出すに出せない安否情報」を参照)。
これは自国民を犠牲にした「売国外交」だ。小泉政権は早く倒したほうがいい。
【自民党も選挙で負けさせて、野党に転落させたほうがいい。そうすれば、建設族たちはゼネコンから献金や陳情を受けても何もできない(から陳情が来ない)ので、日本側には日朝国交正常化を焦る理由がほとんどなくなり、逆に北朝鮮側が焦る可能性が出て来る。幸いに、永年野党であった民主党には建設族がいないので(たとえ民主党議員が全員バカでも)民主党が政権をとれば、自動的に日朝交渉では日本側が有利になる。】
●幕引けず痛手●
曽我さんが北京(中国)以外の第三国での再会を希望したため、こんどは北朝鮮側がジェンキンス氏らを曽我さんに取られる危険を感じていることは想像に難くない。北朝鮮はジェンキンス氏に、曽我さんを通じて「家族会」の意向を探って来い、とスパイのような命令を下している可能性もあり(前掲『スーパーモーニング』での紀藤正樹弁護士の発言。つまり、この問題は曽我さんだけの問題でなく、拉致問題全体の行方を左右する大問題なのだ)、北朝鮮が、自らの監視要員を同行させ難い、中国以外での再会を簡単に容認するとは思えない。
となると、曽我さん一家の再会地決定はだいぶ先になり、参院選後かもしれない。
これは、小泉再訪朝の失敗を印象付けることになり、参院選を控えた小泉と自民党には痛手となる。
野党・民主党がなかなか小泉政権を倒せない中、案外、曽我さんのほうが先に小泉を倒してしまうのかもしれない。
(拉致被害者と失踪者以外は敬称略)
【この問題については次回以降も随時(しばしばメール版の「トップ下」のコラムでも)扱う予定です。
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