〜シリーズ「2011年のTV」(3)〜
フリースタイルスキー女子モーグルの98年長野五輪金メダリストで、フジテレビ社員の里谷多英が05年2月8日未明、東京・六本木のクラブで、警察官の出動する「事件」を起こしていたことが、05年3月になって突然報道された(『週刊文春』05年3月3日発売の3月10日号「里谷多英『泥酔公然事件』」)。
里谷はこの際、酒に酔ってクラブの男性店員に暴行した疑いで、警視庁麻布署から任意で事情聴取を受けたが、嫌疑不十分により逮捕などの法的措置は一切なかった。
が、全日本スキー連盟(SAJ)は事態を重視し、05年3月4日、里谷を事情聴取した。里谷は自分から暴力を振るった事実はないと強く否定したものの、SAJは3月16日からフィンランドで開かれる世界選手権への里谷の派遣を見送る処分を課し、フジテレビも3月4日から5日間の謹慎処分を決定した(デイリースポーツWeb版05年3月5日「里谷多英 ヤッてない!」 読売新聞Web版05年3月4日「クラブで暴行の疑い、里谷選手にフジテレビが謹慎処分」)。
しかし、ちょっと待って頂きたい。いったい里谷は何をやったのだ?
警察が出て来たのだから「警察沙汰」には違いない。しかし、彼女はなんらかの事件の「加害者」だろうか? 彼女が加害者なら被害者はだれだ?………彼女の事件には、どこをどう探しても、骨折、出血、器物破損などの具体的な被害を受けた人物が見当たらない。だからこそ、麻布署は逮捕も送検もしていないのだ。
「一流スポーツ選手たる者、人前でトラブルを起こすべきでない」という意見もあるかもしれない。が、それを言うなら、朝青龍はどうなるんだ? 彼は横綱の地位にありながら、親方や他の力士などと起こしたトラブルは数知れないが、べつに世論から「犯罪者扱い」されてはいないし、所属する競技団体(日本相撲協会)からも処分されていない(サンスポWeb版03年7月31日「朝青龍、偽装和解…旭鷲山と目を合わせず」 日刊スポーツWeb版03年12月23日「朝青龍、葬儀欠席に反省の涙…帰国即先代親方の霊前へ」 毎日新聞Web版04年1月3日「朝青龍、初げいこを無断欠席」 共同通信Web版04年1月4日「朝青龍、綱打ちも欠席 師匠はあきれ顔」 日刊スポーツWeb版04年1月6日「朝青龍に引退勧告の可能性も」)。
マスコミには報道の自由があるので「一流スポーツ選手たる者…」の価値観で報道するのは勝手だが、それを口実になんの罪もない選手を犯罪者のように糾弾し、「処分」を当然のようにみなすのはいかがなものか。
●キラー選手●
そもそもフジテレビはなぜ里谷を社員にしたのか?………もちろん、彼女を女子アナにするためではない。
どう考えても理由は1つしかない。それは、日本にとって五輪でメダルの期待できる競技・種目(フリースタイルスキー女子モーグル)のTV放送権を獲得するためだ。
夏季五輪に比べて競技・種目の少ない冬季五輪では従来、主要競技・種目の実況放送はNHKがほとんど独占して来た。
夏季五輪なら、世界陸上の放送権を持つTBSが陸上競技に関して、バレーボール・ワールドカップ(W杯)の放送権を持つフジがバレーボールに関して、それぞれ「実績」を主張して五輪本番の重要な試合(いわゆる「キラーコンテンツ」になりうる試合)の放送権をよこせ、と放送界・スポーツ界で主張できるし、現に主張し、獲得して来た。
が、冬季五輪では、どの競技でも圧倒的な放送実績の豊かさを誇るNHKが「キラー試合」の放送を独占して来た。98年長野五輪の、里谷が金メダルを取った瞬間も、実況放送していたのはNHKだった。
しかしフジテレビ社員の里谷が五輪に選手として出場するとすれば、どうだろう?
フジはNHKや関係機関に対して堂々と「ウチの社員が出てるんだから、ウチに放送させろ」と主張できる。現に02年ソルトレーク五輪では、フジ(地上波)は彼女が出場し銅メダルを獲得した女子モーグルを実況放送した(フジテレビWeb 02年2月6日「フジテレビ目玉マークがソルトレークに輝く!」 同02年1月「里谷多英 独占インタビュー」 )。
これは、極めて重要な突破口である。今後すべての冬季五輪で毎回、フジがモーグルの中継を「既得権益」として確保できるなら、将来的にフジがスキー競技を中心とするウィンタースポーツの放送で大きく台頭することにつながる。「五輪スキー競技はNHKで見るのがあたりまえ」の時代が完全に終わるのだ。
つまり、里谷はフジがキラーコンテンツを獲得するための「キラー選手」だったのだ。
●フジ vs. スカパー●
さて、里谷はフジテレビ本社の正社員である。その会社の使命は、地上波アナログ放送(地アナ)で番組を放送し、かつ2011年7月まではそれと同じ内容を地上波デジタル放送(地デジ)でサイマル放送(同時・並行放送)することである(それ以降は、地デジのみの単独放送)。
里谷が06年トリノ五輪に選手として出場し、フジが「ウチの社員が出てるんだから」という理由で女子モーグル決勝を放送する場合、それは自動的に、フジの地アナと地デジでのサイマル放送となる。フジは有料衛星放送スカイパーフェクTV(スカパー)の筆頭株主であるが、彼女はスカパーの社員ではないので、決勝の「キラー試合」は当然、スカパーではなく、フジ地上波での放送となる。
地上波で放送するとなると、11年まで義務付けられたサイマル放送期間中は地アナでも見られるので、06年2月の五輪開催直前になっても、日本のTV視聴者の大半は「いまウチにあるTV(地アナ受信機)で見られるなら、そのままでいいや」ということになり、「日本の金メダルを見るために、地デジ受信機を買おう」という動機付けにはならない。
他方、現在、日本の総務省と家電業界は11年までに大急ぎで、大量の地デジ受信機(地アナ、地デジを両方受信できる共用受信機)を普及させようと躍起になっている。全国4000万世帯のすべてに新しい受信機を普及させる「国家的事業」なので、たとえ受信機の価格が平均3万円まで下がったとしても、それが全世帯に普及するなら、総売上高1兆円以上の巨大市場が生まれることになる。
その大目標を達成するうえでは、「五輪のキラー試合が地アナで放送される」などということが、五輪開催のはるか以前から確定しているのは好ましくない。
幸い、総務省と家電業界にとっては、スカパーという頼もしいメディアがある。このメディアにはフジなどの民放各局が出資しているが、ソニー、松下電器などの家電メーカーも大株主である。
これから売り出される、スカパーを受信する機器の大半は、東経110度CSデジタル放送(スカパーのデジタル版)に対応した、地デジも地アナもすべて受信できる「CS付き共用受信機」になるため、今後スカパー加入者が増えれば、自動的に地デジ受信者が増える、という計算が成り立つ。つまり、スカパーそのものは地デジで放送をしないにもかかわらず、スカパーは地デジ普及の切り札なのだ。
となると、家電メーカーとしては、五輪やW杯サッカーの重要な試合のうち、なるべく多くをスカパーに独占させたいはずだ。少なくともソニーや松下などは、地デジ受信機の普及状況を見ながら臨機応変に「キラー試合」を(地上波放送から)スカパー独占放送に変更させることのできる「裁量の余地」を残しておきたいはずだ。
ところが、長野五輪後の99年、里谷はフジ(地上波)に入社してしまった。彼女が入社した頃、日本のウィンタースポーツ界は、長野五輪成功の立役者で、日本オリンピック委員会(JOC)やSAJの会長でもあった、堤義明・前コクド会長が牛耳っていたので(産経新聞Web版05年3月7日「サマランチ会長と蜜月」)、彼女の入社後、フジと堤との間で、五輪スキー競技の放送権(をフジに渡すこと)に関して、なんらかの約束が取り交わされていた可能性が極めて高い。
しかし、地デジ普及が国策となり、かつ地デジ受信機の普及がなかなか進まない05年、この「約束」をそのままにしておくと、五輪放送を地デジ普及に自由に活用できず、総務省を始めさまざまな機関・企業が甚大な不利益を受ける恐れがある。そこで、何者かが日本のTV放送の未来を案じて、里谷が六本木で酔っ払ったうえで起こした(ささいな)出来事を、まるで犯罪でもあるかのように誇張してマスコミにリークし、SAJの「処分」を引き出して、「約束」をご破算にしようとした………と考えても、なんの矛盾もない。
里谷の事件を報じる雑誌が発売された、まさに同じ日(05年3月3日)「約束」のもう一方の当事者である堤が、証券取引法違反容疑で逮捕されていることにもご注目頂きたい(経済同友会Web 05年3月3日「堤義明コクド前会長の逮捕について」)。これで、かつては国際オリンピック委員会(IOC)の栄誉委員にもなり、「五輪のドン」でもあった堤の、スポーツ界における発言力は著しく低下した(四国新聞Web版05年3月4日「IOC倫理委が調査開始/堤義明栄誉委員の逮捕で」 朝日新聞Web版04年10月27日「堤氏、JOC名誉会長辞任 スキー連盟会長も辞任申し出」)。
しかし、この「何者か」は、万一堤が(かつて築いた政治家たちとの親密な関係を利用して)自身の逮捕容疑をもみ消すのではないか、と取り越し苦労をしたのだろう。司法当局がなかなか逮捕に踏み切れずにいた05年1月、堤が何十年も前に、自身の経営するプリンスホテルに所属していた女子フィギュアスケート選手を相手に、レイプ未遂事件を起こしていたことまで、唐突に暴露した(『週刊文春』05年1月27日号「渡部絵美衝撃告白 私を弄んだ堤義明」)。
これで「何者か」は(優勢勝ちではなく)「あわせて1本勝ち」を手に入れたに相違ない。「約束」の当事者双方がケシカランことをした、とくに堤は(単に経済犯罪の容疑がかかっただけでなく)にんげんとして許し難いこと(レイプ未遂)をした、ということになれば(今後、堤が敏腕弁護士を雇って、証取法違反事件で無罪判決を勝ち取ったとしても)、JOC、SAJとフジとの間にどんな「合法的な」約束があろうとも、関係ない。
すべては振り出しに戻り、個々の競技の放送権の問題は、国内外で五輪(とW杯サッカー)の運営に絶大な発言力を持つA社の手に帰したはずである(A社については小誌05年5月30日「読売の抵抗〜シリーズ『2011年のTV』(2)」 を参照)。もはや「約束」の当事者たちはだれも「あの堤義明大先生が間にはいって決まったことですから」という反論はできないのだ。
かくして堤は五輪への影響力を一切失い、代わってA社がそのすべてを継承したに相違ない。
ちなみにA社は06〜08年の五輪の、家電部門での「ワールドワイドパートナー」には松下電器を、07〜14年のW杯サッカーの、デジタルライフ部門での「公式トップ(全世界向け)スポンサー」にはソニーを、それぞれ割り振っているので、11年までの日本の地デジ普及期には、キラーコンテンツを駆使したA社、松下、ソニーのデジタル普及戦略が、放送界で縦横無尽に展開されることとなろう。
【「堤義明逮捕」の本質は、けっして「あいつは昔から悪いことをしていたから、当然だ」ではない。「なぜ昔逮捕されなかったのにいま逮捕されたのか」が問題なのだ。マスコミはこの疑問にはまったく答えず、今頃になって急に、私生活も含めて彼を「極悪人」のように罵倒し、「オレも昔から悪いやつだと思ってたんだよ」と言わんばかりに、みなしたり顔で報道している。そこで、筆者なりに「堤義明凋落」の理由を、五輪(放送)利権を中心に推理してみた次第である。】
【上記は筆者の「推理」(予測)であり、「期待」は一切含まれていない。この推理が正しいかどうかは、06年以降の(冬季)五輪放送権の行方を見極めることによって判定できるだろう。】
地デジの普及が国策になったのは厳然たる事実だし、その普及に五輪の「キラーコンテンツ」を使いたい、と考える普及推進派(家電業界、総務省、A社)の意向も理解できる。 が、筆者は里谷とフジに同情する。彼らはべつに何も悪いことはしていない。ただ、運悪く地デジ普及の「国家的大事業」に遭遇してしまっただけなのだ。
【このシリーズのテーマは今後も随時取り上げます。】
【この問題については次回以降も随時(しばしばメルマガ版の「トップ下」のコラムでも)扱う予定です(トップ下のコラムはWeb版には掲載しません)。
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