〜秋篠宮妃男子出産でも解決されない、皇室に潜む危機〜
前回、米国の連合軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本を占領統治していた終戦直後に、日本は11宮家の廃絶と庶系庶子の相続禁止(側室制度の廃止)をGHQに押し付けられ、皇室典範が皇位継承権があると認める男系男子の誕生確率を著しく引き下げられた、と述べた。これは荒唐無稽な陰謀論ではなく数学の「確率論」であり、GHQが「自らは手を汚さずに数十年後に天皇制を自然消滅させよう」としたことは明らかだ。
この「自然消滅工作」はわずか60年でほぼ成功し、GHQ主導の、1947年の皇室典範改正から59年を経た06年8月現在、昭和天皇兄弟の曾孫(今上天皇兄弟・従兄弟の孫)の世代には男系男子は1人もいない。秋篠宮妃殿下が06年9月に出産予定だが、たとえ男子が誕生しても、たった1人なので、皇位の安定的な継承を考えると、まだ人数が足りない(秋篠宮の妻紀子妃は66年9月生まれでまもなく40歳、皇太子の妻雅子妃は63年12月生まれの42歳で、この2人より若い妃はいないので、側室制度のない現状では、昭和天皇兄弟の曾孫世代に男系男子が誕生する機会は、もうないであろう)。
そこで、天皇制を維持するために、皇室典範第1条を改正して、現在男系男子に限定されている皇位継承権を男系女子や女系の皇族にも広げよう、という発想で浮上して来たのが「女帝・女系容認論」である。
「男系」とは「男性皇族の父親から生まれた」という意味である。皇太子殿下の長女、愛子内親王は男系女子で、彼女が天皇になった場合は「男系の女性天皇(女帝)」となる。彼女が男子を出産しその男子が天皇になった場合は「女系の男性天皇」、女子を出産しその女子が天皇になった場合は「女系の女性天皇」となる。
二千数百年とされる皇室の歴史を見ると、たしかに女帝は何人か存在する。が、いずれも男系の女性天皇であり、しかも、本来の皇位継承者である男系男子が即位するまでの「暫定天皇」にすぎない。その典型は持統天皇(在位690〜697年)で、彼女は自分と夫の天武天皇の息子、草壁皇子が早世したため、草壁皇子の息子(天武天皇の孫)を確実に即位させるため、皇位を他人に渡さないために、その孫(文武天皇)が成人するまでの間皇位(の象徴たる勾玉)を預かった(「系統を保持する天皇」と書いて「持統天皇」)。
つまり、遠い祖先の血をひく男系男子、現代風に言えば、初代神武天皇のY染色体を受け継ぐ皇族のみが正統な皇位継承者であり、そうでない者、男系女子皇族には緊急事態における「ワンポイントリリーフ」しか認められていない。そして、女系男子、女系女子の皇族は、1人も即位した例がない。
この皇位継承の伝統を、現代の日本国民が「男尊女卑」「女性差別」と否定的に考えることはもちろん可能で、だからこそ、小泉純一郎首相が設けた私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は、男系女子も女系男子も女系女子も正式の天皇として即位可能、という報告書をまとめている(首相官邸Web 05年11月24日「皇室典範に関する有識者会議報告書」。この報告書(p.52)に引用されている「女性天皇に関する世論調査」における、05年10月時点の、83.5%もの女帝容認の世論は、小泉の首相辞任後も「参考資料」として生き続けるだろう)。
もちろん、皇族自身を含め、皇室の伝統を重んじる旧皇族や歴史家など一部の国民は、(暫定女帝でない、本来の)天皇に関して、以下のような明確な定義を持っている:
#1:神武天皇の血をひく男系男子で、
#2:三種の神器のうち八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を所持して即位し、
#3:即位後、新穀を食す儀式、大嘗祭(だいじょうさい)を行った者
である(平沼赳夫Web 05年11月22日「男系継承によってしか万世一系の皇統は護れない!」)。
「#3」の大嘗祭は、神武天皇の祖先神(男神)であるニニギノミコトの霊を体内に入れ、即位後の天皇がニニギノミコトとして再生する儀式であり、これは女帝には不可能だ。現実に大嘗祭を行った女帝は過去にいないので、女帝は正式な天皇ではない。
そうは言っても、天皇は憲法上の存在でもある。日本国憲法第1条には「天皇は、日本国の象徴であり(中略)この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあるので、皇室典範が女帝や女系天皇を認めるように改正され、かつ国民の総意(たとえば、世論調査で国民の90%以上)がそれを支持しているなら、法律上なんの問題もない……ように見える。
が、この「総意」というのがくせものだ。
●訴訟リスク●
大嘗祭が不可能な女帝が正式な天皇として即位した場合は、旧皇族、歴史家、熱烈な皇室支持者らが、その即位の無効確認を求めて訴訟を起こすことが可能だ。曰く、
「国民の一部であるわれわれが天皇と認めない女子皇族の即位は『国民の総意』に基づいておらず、憲法1条違反だ」と。
もしも男系女子(たとえば愛子内親王)だけでなく、「暫定」の枠を越えて、女系の男子や女子(愛子内親王の息子や娘)にまで即位の道が開かれるような、史上類例のない事態になれば、この「憲法訴訟」の支持者、原告団の人数は際限なく増え、史上空前の集団訴訟に発展してもおかしくない。
そうなれば、マスコミは女帝や女系天皇の正統性を、賛否両論の立場から議論せざるをえなくなり、そのような「問題のある天皇」の地位はとても「国民の総意に基づいている」とは言い難い。
おそらく、このような「即位無効訴訟」では、裁判所は憲法判断を避けようとするだろう。1951年(昭和26年)に、南北朝時代(1336〜1392年)に分裂した南朝系天皇家の嫡流と自称する熊沢寛道が起こした「(昭和)天皇不適格確認訴訟」では、当時の東京地裁は「天皇は裁判権に服しない」と却下しているからだ(保阪正康『天皇が十九人いた』角川文庫05年刊 p.24)。
しかし、この訴訟のように天皇個人を民法で裁こうとするのではなく、女帝・女系を容認した皇室典範の改正、つまり国会の立法行為を憲法81条の「違憲立法審査権」で裁くのは可能なはずだから、裁判所はそう簡単には却下できまい。
もし次々に憲法訴訟が起こされれば、たとえその大半が却下されたとしても、それはかつての「自衛隊違憲訴訟」と同じことになる。自衛隊は21世紀のいまでこそ、ほとんどすべての国民に合憲合法で必要な存在と認識されているが、1954年の発足直後には、国民の何分の1かによってその存在を否定されており、言わば「継子(ままこ)扱い」をされていた。
つまり、うっかり女帝や女系天皇を即位させてしまうと、国民の相当数から「継子扱い」を受ける恐れがあるのだ。それはまさに憲法1条の「国民の総意」に基づかない「違憲状態」であるから、「女帝・女系容認論者」のなかにも、天皇の「合憲性」を疑う者が次々に出現し、ある数を超えると、あとは際限のない悪循環に陥って「違憲性」は深刻化の一途をたどることになろう(自衛隊は憲法上国民の総意に基づく必要はないが、天皇はそうはいかない)。
読者のなかには「そんな面倒な訴訟を起こす物好きがいるのか」と疑う方もおられよう。が、ご心配なく。だれもやらなければ筆者がやる。
●南朝の脅威●
筆者が、現在の皇室の家系から(伝統に反する形で)女系天皇を出してはならない、と考えるのは、天皇制を維持したいからである。では、なぜ伝統に反する形を少し取り入れただけで、天皇制の維持の問題になるのか、というと、実は今上天皇の家系はすでに重大な「伝統違反」を犯している恐れがあるからだ。
話は南北朝時代にまで遡る。
天皇の即位の礼(即位式)には八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の「三種の神器」が必要とされるが、このうち「鏡」は伊勢神宮に、「剣」は熱田神宮に安置されていて、天皇の手元には形代(模造品)があればよい。しかし、「勾玉」だけはほんものを所持していなければ正統な天皇ではないとされる。
鎌倉時代後半、14世紀初頭以降、天皇家(皇室)の血筋は大覚寺統と持命院統という2系統に分裂し、皇位継承に関して鎌倉幕府の仲裁を受け、両系統から交互に天皇を即位させるありさま(両統迭立)で、すっかり弱体化していた。
そんな中、有力大名、足利尊氏は、鎌倉幕府を打倒して天皇の親政(大覚寺統の後醍醐天皇の「建武の新政」)を実現したが、自身の権力追及のために、後醍醐天皇を幽閉して京都(北朝)で持命院統の光明天皇を即位させ、その天皇から将軍宣下を受けて1338年、京都に幕府を開く。
しかしこの間、後醍醐天皇以下大覚寺統の皇族は勾玉を持って京都から大和国(奈良県)の吉野に逃れ、そこで朝廷(南朝)を営み、自らが正統な天皇を擁していると主張し続けた。
この南北朝の対立は、1392年、南朝側が勾玉を京都の北朝に譲って南北朝が統一されて終わった……ことになっている。
が、今上天皇もその曽祖父の明治天皇も、江戸時代のすべての天皇もみな北朝の血筋であって、南朝側の血ははいっていない。しかも1443年、南朝の残党が京都の御所に乱入して勾玉を奪う事件まで起きているので(その勾玉は、いったん断絶した有力大名、赤松満祐の宗家の遺臣が1458年に奪回して北朝に返したことになっているが、赤松主従には宗家再興のために手柄を捏造したい動機があったので)北朝系の天皇が保持する勾玉は1443年以降はにせものの可能性がある(篠田正浩・明石散人『日本史鑑定 天皇と日本文化』徳間文庫04年刊 p.30)。
明治時代の国定歴史教科書には南北朝時代の2系統の系図(皇統)が対等に併記されていた。ところが1908年(明治41年)、熊沢寛道の父大然(ひろしか)が南朝の正統性を訴える上申書を明治天皇宛に出し、1910年に起きた「大逆事件」の公判で同年、天皇への反逆(暗殺未遂)容疑に問われた社会主義者の幸徳秋水が「現天皇の祖先(北朝)だって、南朝の後亀山天皇に反逆して皇位を奪ったではないか」と発言して裁判官を絶句させると、国会で上記の国定教科書の記述が議論の的になり、南北朝正閏(せいじゅん)論争が沸騰した。そして、1911年(明治44年)、当時の政府は、天皇の勅裁を得て、南北朝時代の北朝系の5人の天皇(反逆者?)の在位を取り消して教科書を書き替えさせ、「南朝正統論」を確定してしまう(保阪前掲書 p.p37-38)。
熊沢の家系は、明治時代には皇族でもなんでもないただの人として生きていた。りっぱな御所や皇居に住んでいるわけでもなく、ほんとうに南朝の子孫かどうかを疑われてもやむをえなかった。他方、上申書を受け取った明治天皇は、大日本帝国の軍隊と官僚機構を率いる堂々たる国家元首だ。その国家元首がただの人に事実上降伏し「あなたのほうが正統です」と言ったのだ(…んなアホな)。
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その後も第二次大戦中まで、政府は熊沢の家系に対しては、腫れ物にさわるような扱いをしたと言われる(保阪前掲書 p.p 39-40)。
●GHQと熊沢天皇の亡霊●
その「南朝」の家系は第二次大戦後ふたたび歴史の表舞台に現れる。上記の熊沢寛道が「われこそは(ほんものの勾玉を代々受け継ぐ)南朝宗家(の男系男子)であるから、現天皇(昭和天皇)に代わってその地位に就くべきである」という趣旨の請願書をGHQのダグラス・マッカーサー司令官に出し、米ライフ誌など国内外のマスコミに「熊沢天皇」として紹介されたのだ(寛道の肖像写真は → こちら)。
戦前現人神(あらひとがみ)とされていた昭和天皇は戦後、1946年1月に「人間宣言」をし、翌月から全国巡幸する。理由は、敗戦で打ちひしがれた国民を励ましたいという本人の想いもあったろうが、ほかに「この人は国が戦争に負けてもなお天皇です」とGHQに対して示したい意向が(たとえ本人になくても)天皇の側近や日本政府高官のなかにはあっただろう。結局、この巡幸は大成功し、昭和天皇は各地で熱狂的に歓迎された。
ところが同じ頃、寛道も各地を巡幸し、しかも寛道には1947年半ばまでGHQの将校が同行していたのだ(保阪前掲書 p.p 36-37)。
前回の記事「皇室と靖国神社の寿命〜シリーズ『靖国神社の財政破綻』(2)」を思い出して頂きたい。GHQは、明らかに天皇制を不安定化させ、将来「自然消滅」させようと画策していたのだ。そのGHQが「正統性のある」南朝の血筋に接触し、一時的にせよ支援していたとなると、ただごとのではない。
現代の日本国民の大半は、天皇が天皇たるゆえんを、つまり即位や大嘗祭の複雑なメカニズムを知らない。だから、「国民の総意」が女帝や女系天皇を認めるならそれでよいではないか、と安易に考える小泉のような者が大勢いるのだ。
が、GHQはその複雑なメカニズムを、一般の日本国民よりはるかに詳しく知っていたのではないか。
米プリンストン大のゴードンバーガー(元)教授は南朝や熊沢寛道を研究し「熊沢天皇はほんものだ」と断定している(篠田・明石前掲書p.235)。
不気味なのは戦後の国家機密資料の行方である。現代史家の秦郁彦によると、GHQは日本の戦争指導者を裁く極東軍事裁判(東京裁判)のために、明治初年から終戦まで非公開にされていた日本の国家機密資料を大量に公開したのに、戦後、1947年頃になるとふたたび機密資料はすべて非公開にされ、現在もそのままになっている、という(06年8月26日未明放送のテレビ朝日『朝まで生テレビ』「激論!戦後日本の終わりと“ナショナリズム”」)。また、評論家の田原総一朗は、終戦直後のGHQの新聞各社への検閲記録を探した結果、それらは日本の新聞社には一切残っておらず、すべて廃棄された(か、米国に持ち去られた)という(前掲『朝まで生テレビ』)。つまり、今後貴重な史料が突然米国で発見される恐れがあるのだ。
そこで筆者は次のような事態を心配せざるをえない:
「現皇族やその子孫が女帝や女系天皇になったあと、日本政府が米国の国益と対立するような政策をとろうとすると、突如熊沢天皇の正統性を示す証拠が米国から日本のマスコミに(『富田メモ』のように)もたらされて報道されるのではないか」
昭和天皇が東条英機元首相らA級戦犯の靖国神社への合祀に反対であったことを示す、富田朝彦元宮内庁長官の「富田メモ」が日経新聞(06年7月20日付朝刊1面「昭和天皇が不快感」)でスクープされたとき、大勢の日本国民は靖国神社について考え直し、世論は「メモ支持派」と「不支持派」に分裂した。靖国神社(のA級戦犯)に関して、06年自民党総裁選最有力候補の安倍晋三官房長官と対照的な考えを持つ福田康夫元官房長官は、このスクープのあと「国論を二分したくない」ことを理由に総裁選への不出馬を表明し、安倍との対決を避けたほどだ(読売新聞Web版06年7月21日「福田氏、総裁選に立候補せず」)。
もし熊沢天皇の正統性の証拠が「発見」されたら、その衝撃は富田メモの比ではない。そのとき女帝や女系天皇が在位していれば、南朝の家系はその証拠を武器に訴訟を起こせるし、起こせば世論は四分五裂し、天皇制は崩壊の危機に瀕するだろう。鎌倉幕府もGHQも日本共産党もできなかった天皇制の廃絶が、後醍醐天皇の時代以来約700年ぶりに現実味を帯び、日本国民は近代以降初めてナショナルアイデンティの動揺を経験するだろう。すくなくとも日本の政官界中枢は、そういう事態の到来を恐れるだろう。
つまり、米国は熊沢天皇の正統性の証拠さえ握っていれば、いつでも日本を脅迫できる、ということになる。
この「脅迫」が成立する可能性は、元々正統性の薄い北朝系の今上天皇の家系が、さらに正統性の乏しい女帝や女系天皇を擁立したときに決定的に高まる。つまり、南朝側に「われわれは代々勾玉を受け継ぐ男系男子だ」と証明されてしまうと、「北朝側」は反論のしようがないのである。だから、今上天皇の家系は、たとえ不完全でも自身の正統性を主張できるよう、せめて男系男子相続の伝統だけは守る必要がある。
06年現在、天皇制を支持するほとんどの日本国民はGHQと違って、南北朝正閏論争も大嘗祭のメカニズムも知らない。ただ、愛子内親王を含む昭和天皇の子孫をTVで繰り返し見て親しみを感じているにすぎない。だから「われわれ国民が親しみを持っているのだから、皇室も天皇制も大丈夫だろう」という感覚を持つことは、素朴な国民感情としては当然だ。
が、国民感情だけでは訴訟リスクを回避できない。皇室と天皇制の権威が訴訟で傷付くのを防ぐには、かつて全国巡幸の「南北朝直接対決」を制した昭和天皇の子孫に、可能な限り伝統を守ってもらうほかない。
だから、女帝・女系容認論は許されない。 現在の皇太子殿下(徳仁親王)が天皇に即位すると、後継の皇太子を決める「立太子」が行われるが、そのとき皇室典範が女帝・女系容認論に基づいて改正されていれば、愛子内親王が皇太子になる。訴訟は、その時点から「内親王の立太子は無効」と求める形で可能になるから、これは遠い将来の問題ではない。
【次回は「ポスト安倍〜短命政権の宿命」の予定。】
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