〜灘高を人質に取られた教育再生会議座長〜
06年10月24日、富山県立高岡南高校で3年生の全生徒197人が、2年生のときに世界史など地理歴史教科(地歴科)の必修科目を履修していなかったことが、なぜか突然発覚した(読売新聞Web版06年10月24日「必修『地・歴』履修漏れ、3年生卒業ピンチ…高岡南高」)。それをきっかけに文部科学省(文科省)が全国の公立高校全校を対象に行った緊急調査で、10月28日、同様の「履修不足」が31都道県2政令指定都市の286校にものぼることが判明した(読売新聞Web版06年10月28日「必修逃れ公立高校、286に…文科省調査」)。
すると翌29日、伊吹文明・文部科学大臣は、私立高校についても同様の調査を行うよう事務方に指示したことを明らかにし、「学習指導要領通りに勉強してきた生徒らは、世界史などを履修してこなかった彼らと同じように大学を受ける。そのことの不公平感もよく考えなければならない」と公立私立を問わず、履修不足の生徒には厳しい姿勢で臨むことも付け加えた(朝日新聞Web版06年10月29日「私立の調査、伊吹文科相が指示 必修漏れ」)。
31日午前4時、文科省は、履修不足は、すくなくとも公立私立あわせて全国461校、7万2516人の生徒にのぼるという中間集計結果を発表した(朝日新聞Web版06年10月31日「必修漏れ、公立私立合わせ7万3千人に」)。この時点で、私立高校全1348校のうち、238校の調査はまだ終わっておらず、毎年100名前後の東京大学入試合格者を輩出するような私立高校(「(超)有名進学校」)の実態を、文科省は(公式には)把握していなかった(から、そういう学校の履修不足は1例も発表されていなかった)。
ところが、同日午後、(超)有名進学校のトップを切って、兵庫県の私立灘高校が、3年生全員が必修科目の家庭科を履修していないことを自主的に公表した(読売新聞Web版06年10月31日「灘高、3年全員が履修漏れ」)。
●灘高OBの窮地●
なぜ灘高校から先に、しかも文科省の調査結果の発表を待たずに自主的に履修不足の実態を公表したのか。
謎を解くカギは、安倍晋三首相が首相(官邸)直属の諮問機関として発足させた「教育再生会議」にある。この会議の座長は、ノーベル化学賞受賞者の野依良治(のより・りょうじ)理化学研究所理事長だが、実は彼は灘高出身なのだ(ウィキペディア「灘中学校・高等学校」)。
灘高の「家庭科飛ばし」は何も、きのうやきょう始まったことではあるまい(読売前掲記事は、灘高の「必修逃れ」は03年から突然始まった、と指摘しているが、不自然で信用できない。たぶん学校創立以来、一度も家庭科教育用の設備が置かれたことはないだろうし、家庭科担当教師が勤務したこともないだろう)。とすると、いやしくも教育のあり方を論じようという政府機関の長が「実は高校で必修科目を1つごまかして卒業しました」ではしめしが付かない。最悪のケースは、マスコミに「野依座長ご自身は、高校で履修不足はなかったでしょうか」と聞かれて露見することだ。だから、野依は母校に電話をかけて「お願いですから、私がマスコミに聞かれる前に、そっちで先に(必修逃れは最近始まったことにして)発表して下さい」と頼んだに違いない。
【このとき文科省は「03年から始まったことにすれば、あなたの母校に厳しい処分はしませんよ」と取り引きを持ちかけたはずだ。】
●打倒「教育再生会議」●
それにしても、なぜこの時期に突然、履修不足が顕在化したのだろう。まるで、安倍政権が発足し、その教育政策の「目玉」である教育再生会議が発足するのを待っていたかのようなタイミングだ。
灘高OBには、野依のほかにもすぐれた人材が多く、中央官庁の高級官僚や大手マスコミの論客として活躍中の者も多い。とすると、こんなことは官界でもマスコミ界でも、昔からわかり切ったことだったのではないか(灘高OBのなかには当然、文部官僚もいるはずだ。ウィキペディア前掲記事)。
私立は私立なのだ。公立高校とは違って、たとえば「中・高6年一貫教育」などの特徴を活かして、独自の自由な教育をしていることはよく知られていることであって、だからこそ、小学生の私立中学受験競争、いわゆる「お受験」が過熱するのだ。なんでいまさら急に私立校の「独自性」を問題視する必要があるのか、筆者にはさっぱりわからない。べつに履修不足の生徒たちは「天下の大罪」を犯したわけでないし、そのことを伊吹文科相もわかっているからこそ、履修不足のまますでに卒業してしまった者についてはなんの措置もとる気がないのだ(共同通信06年10月31日付「卒業生は不問、と文科相 自民幹事長は救済策容認」)。それなら、現在の3年生についても、あと半年目をつぶってやればいいではないか。なんでそんな簡単なことができないのか。
どうも怪しい。
履修不足の発覚でいちばん困っているのは、当事者の生徒や学校関係者を除くと、明らかに野依だ。なぜなら、これから来年(07年)3月まで、全国で何万人もの高校生が何十時間もの補習に苦しむ中で(産経新聞Web版06年11月1日「学校の裁量で『50時間』に 『未履修』救済」)、「必修逃れ」で高校を卒業した者が「教育の再生」を語るのは不可能だからだ。
野依が「家庭科飛ばし」の過去を恥じて教育再生会議の座長を辞任する羽目に陥れば、いちばん喜ぶのはだれか…………それはもちろん文科省だ。
言うまでもなく、教育行政は本来文科省(旧文部省)の所管だ。20代で国家公務員試験にうかって、何十年も教育問題に取り組んでいる幹部クラスの文部官僚にしてみれば、「自分たちこそ教育のプロ」というプライドがある。
それなのに、安倍首相は、官邸の直属機関として、高校などで教えた経験のない、教育問題の素人(失礼!)にすぎない文化人多数を含む著名人を集めて「教育再生会議」を作り、さらに教育再生担当の首相補佐官(山谷えり子参議院議員)まで任命して教育行政に介入する態勢を敷いた。このため、たとえば、福岡県筑前町の中学生がいじめが原因とする遺書を残して自殺した問題への対応では、文科省は小渕優子政務官を現地に派遣しているのに、同時に、教育再生会議のメンバーで通称「ヤンキー先生」として知られる義家弘介・横浜市教育委員と山谷首相補佐官が首相官邸から勝手に派遣されて現地入りし、小渕政務官と相前後して自殺した生徒の遺族や学校関係者に会ったため、「政府関係者が別々に、同じ人から同じことを繰り返し聞く」という珍妙な事態になった(06年10月25日放送のTBSニュース「福岡のいじめ自殺、小渕政務官ら現地に」)。
これが文部官僚にとって、どれほど屈辱的なことであるか、は想像に難くない。文科省側から見れば、このような官邸からの横槍は、文科省固有の「縄張り」を荒らし、文科省の存在価値を貶めることにほかならず、到底許せることではない。
当然、彼ら文部官僚たちは「教育再生会議なんか潰したい」と考える。では、どうすれば潰せるか…………幸いなことに、座長は(創立以来一度も?)家庭科の授業をしていない高校の卒業生だから、この際これを問題にしたらどうだろうか。おそらく、野依同様に高校で家庭科を学んだことのない私立高校OBの文部官僚が、灘高を人質にして野依を脅すために、作戦を考えたに違いない。
とはいえ、「マイナー科目」の家庭科から始めても「大学受験に臨むうえで不公平」などの議論は展開しにくい。だから、まず「メジャー科目」の世界史を例にとって、地方の公立高校から先に血祭りにあげ、騒ぎが大きくなったところで、「次は私立も」と大臣に言ってもらうことにしたのだ。さすれば、野依と灘高は確実に窮地に立つ……まさに高校教育の実情に精通した文部官僚ならではのみごとな(?)作戦だ。これでは、さしものノーベル賞級の頭脳でも打つ手がない。野依にはもはや、座長を辞めるか、文科省の言いなりになるか、の2つに1つしか選択肢はあるまい。
万一、野依が座長だけでなく、教育再生会議のメンバーも辞めてしまえば、同会議は事実上機能しなくなる。安倍が野依に白羽の矢を立てて座長に迎えたのは、議論がまとまらなかったときに「ノーベル賞の威光」を水戸黄門の印籠のように利用して、少数意見や文科省筋からの反対意見を「制圧」したり、会議でまとめた答申に文科省の政策以上の権威を持たせたりしたかったからに相違あるまい。その「印籠」がなくなってしまえば、あとは、劇団代表や居酒屋チェーンの社長やヤンキー先生の「玉石混交」にすぎず、およそ、内部で議論が噛み合うことも、外部(文科省)を心服させることも期待できそうにない顔ぶれが残る(朝日新聞Web版06年10月09日「教育再生会議17委員内定 トヨタ会長、ワタミ社長ら」)。
おそらく文部官僚は、野依1人にターゲットを絞って「桶狭間の奇襲戦」のような作戦を立てていたに相違ない。これで、野依が去っても残っても、教育再生会議の形骸化はほぼ確実だ。
ちなみに「私立も調べろ」と命令した伊吹文部科学大臣の出身高校は、公立の京都府立嵯峨野高校だ(いぶき文明公式Web「プロフィール」)。同高校では、全生徒が2年生までに世界史も家庭科も履修できるカリキュラムが組まれているので、大臣自身が「あなたも履修不足では?」と問われて狼狽することはないだろう(京都府立嵯峨野高等学校Web 06年10月16日「嵯峨野高校学校案内冊子」)。
●まるで「年金未納」●
地方の公立高校が、必修科目の世界史を大学受験に不利と見て「敵視」するようになったのは、94年度に実施された高校教育課程の全面改訂で、従来の「社会科」が解体されて「地歴科」(地理、日本史、世界史)と「公民科」(倫理、政治経済、現代社会)に分離され、地歴科の中で「世界史は必修、日本史か地理を選択」という方式が施行されたあとに違いない(94年度以前は、世界史も社会科のなかの選択科目にすぎず、「覚えることが多すぎてイヤ」なら選択しなければよかったのだから)。したがって、公立高校出身で、世界史などの「必修逃れ」をした卒業生は、最年長でも06年現在まだ30歳前後であり、社会の第一線で管理職などとして活躍している者は少ないだろう。
しかし、灘高などの私立高校で家庭科の「必修逃れ」をした卒業生は、社会のあらゆる分野に進出している。政界、官界、マスコミ界などで著名人の学歴を洗えば、たちまち何十人も何百人も「前科者」がみつかるはずだ。
となると、最悪の事態は04年の「年金未納政局」の再現だ。
04年4月には、まず、与党自民党の3閣僚の国民年金保険料の「未納」が発覚し(読売新聞Web版04年4月26日「中川経産相、麻生総務相、石破防衛長官に年金未払い期間」)、次に、その3人を「未納3兄弟」などと呼んで非難した野党第一党党首にも同じような問題が発覚し(読売新聞Web版04年4月30日「福田長官ら4閣僚未納 民主は菅代表 厚相当時」)、さらに、同様の不祥事はほかの大物政治家にも広がった。
挙げ句の果てには、マスコミで政治家の年金不祥事を非難していたジャーナリストまでもが、自身の年金未納問題を暴露される(共同通信04年5月14日付「人気キャスター3人が未納 報道の小宮さん、田原氏ら」)、という事態になった。
04年には、政界、マスコミ界あわせて数十人の著名人が、役職の辞任や謝罪、TV出演自粛などの形で責任をとらされ、政府与党では官房長官の辞任、野党第一党では党首の交代にまで発展したのだが、今回も極めて多数の政治家やジャーナリストが「前科」を抱えてびくびくしていることは間違いない。
が、「武士の情け」だ。小誌はここで敢えて名前を挙げることはしない。
「地方の公立高校が大学受験の予備校と化しているのは問題だ」と「正論」を唱える識者もいるようだが、それなら、大学受験に無関係なことを過剰に教えて高校の授業を空洞化させ、生徒に高校と予備校の「二重の負担」を強いるのは、いいことなのか。もしそうした負担の重さが大々的に(今回の履修不足問題のように誇張されて)報道されれば、同じ「識者」がしたり顔で「生徒の負担を軽減すべきだ」と言い出すのは、目に見えているではないか。
マスコミも、この程度の「形式犯」でガタガタ騒ぐんじゃない! 公立高校が「世界史必修」の画一的な教育課程にさからって自主的に「生徒の負担軽減」のために先手を打ったのが、そんなに悪いか。82年の教科書検定誤報事件(旧文部省の歴史教科書検定で、日本のアジアへの「侵略」が「進出」に書き換えられた、というデマが全国紙に掲載され、日中間の外交問題に発展した事件)の際には、多くの識者が「教科書の記述を画一化するのはよくない」と、文部省の支配にさからう「教育の自由」の重要性を訴えたではないか。
「官邸(教育再生会議) vs. 文科省」の争いに巻き込まれた子供たちこそいい迷惑だ。彼らも、その高校も、単に運が悪いだけだ。この際、大人は偉そうなタテマエは言わずに、子供たちの不運にこそ配慮してやるべきだ。
今回の文科省の高校生に対する「意地悪」の発端は、野依への「いじめ」である。
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