タイブレーク制

は日本の陰謀?

イ・スンヨプの謎

 

〜シリーズ

「北京五輪」

(3)

 

(Aug. 04, 2008)

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■イ・スンヨプの謎〜シリーズ「北京五輪」(3)■

 

北京五輪野球「タイブレーク制」導入は日本の陰謀か。また、2008年4月に絶不調で2軍落ちし、7月に1軍復帰して本塁打を打ったイ・スンヨプ(巨人)が北京五輪野球韓国代表チームに参加するが、彼は日本代表(星野JAPAN)の脅威になるのか。

 

 

 

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■イ・スンヨプの謎〜シリーズ「北京五輪」(3)■

 

【お知らせ:佐々木敏の小説『ラスコーリニコフの日・文庫版』が2007年6月1日に紀伊國屋書店新宿本店で発売され、5月28日〜6月3日の週間ベストセラー(文庫本)の総合20位前後になりしました。】

 

【前回「謎のウィルス感染〜シリーズ『北京五輪』(2)」は → こちら

 

イ・スンヨプ(李承ヨプ)は韓国プロ野球界(韓国野球委員会、KBO)のサムスンライオンズでは年間50本以上の本塁打を打ったことのある「大砲」だったので(1999年に54本、2003年に56本)、2003年シーズン終了後、自信満々で米大リーグ(MLB)に自らを売り込んだ。ところがMLBの球団はどこもまともに相手にせず(極めて安い年俸でマイナーリーグ選手として契約してもいいと言った球団が1つあったが、あまりに屈辱的だったのでそれは断り)、仕方なく2004年から日本プロ野球組織(日本野球機構、NPB)パ・リーグの千葉ロッテマリーンズ(ロ)に入団した。2006年にはセ・リーグの読売巨人軍(巨)に移籍し、こんにちに至っている。

以下は、彼の日本での、シーズン中(ペナントレース)の年度別打撃成績である(2008年度は7月29日まで):

 

【イ・スンヨプの年度別打撃成績(1軍公式戦)】

年 団 試 打 安 点 本 率

04 ロ 100 333 80 _50 14 .240

05 ロ 117 408 106 _82 30 .260

06 巨 143 524 169 108 41 .323

07 巨 137 541 148 _74 30 .274

08 巨 _18 _64 __9 __5 _1 .141

[資料:NPB Web 2008年7月29日「個人年度別成績 李承ヨプ(読売ジャイアンツ)」]

 

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●アジアの大砲?●

ロッテ入団当初、イ・スンヨプはパ・リーグの1軍投手がまったく打てず、ファーム(2軍)に落とされた。その後なんとか這い上がって1軍の試合に出たものの、祖国で活躍したときのように四番打者やクリーンアップトリオを務めることはできず、七番打者に甘んじた。彼は2年間ロッテに在籍し、2年目には成績も向上したが、それでも打率.260、82打点、本塁打30本に留まり、2005年のシーズン終了後、彼はロッテを退団した。

 

 

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その彼を、なぜかセ・リーグの巨人が獲得した。

その移籍決定後に開催された2006年3月のワールドベースボールクラシック(WBC)では、彼は韓国代表チームの三番打者として出場し、日本代表(王貞治監督率いる王JAPAN)の投手を相手に、一次リーグ(L)、二次L、準決勝の3試合で対戦した…………が、結果は(11打数)1安打しか打てずに終わった(日本野球機構Web 2006年3月20日「'06年 WORLD BASEBALL CLASSIC 試合結果」)。

 

 

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理由は単純明快だ。王JAPANには、イ・スンヨプのロッテ時代の同僚、里崎智也捕手(現在もロッテに所属)がいたからだ。当時、里崎がTVカメラの前で

 

「スンちゃんは、どこに投げれば打たれないか、完全に(弱点が)わかっているので、そこ(弱点のコース)ばかり狙って(投手に)投げさせればいいんだ」

 

と豪語したことでも明らかなように、イ・スンヨプはほぼ完璧に王JAPANの投手陣に抑え込まれた。イ・スンヨプが王JAPANの投手陣から打ったただ1本のヒットが本塁打だったので「日本に強い」と誤解している野球ファンもいるが、実は、そのとき打たれた石井弘寿投手(東京ヤクルトスワローズ)は怪我をしており、その登板を最後に王JAPANを離脱している。

 

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つまり、イ・スンヨプは、怪我人の失投を本塁打にしたのを除くと、他の打席はすべて打ち取られたのであり(とくに準決勝では4打数0安打3三振に終わり、ほとんどまともにバットに当てることもできなかったのであり)、「日本のプロ野球で通用する実力がない」と言われても仕方がないほどのレベルだった。

が、日本戦以外ではヒットを量産し、WBCのベストナインに選ばれたため、この時点では一部の専門家以外、その真の実力には気付かなかった。

 

 

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案の定、イ・スンヨプは、2006年の日本のプロ野球シーズンが始まると、巨人の四番打者として起用されたにもかかわらず、すぐにレベルの低さを露呈した。2006年4月は、前半こそ高打率を記録したものの、後半に失速して打率が急降下し、祖国の新聞には(セ・リーグ各球団に弱点を見破られた結果)「絶不調に陥った」と書き立てられた。

 

 

 

 

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韓国の新聞、朝鮮日報は、スポーツ報知の記事を引用し、王JAPANで里崎のチームメイトだった広島東洋カープの黒田博樹投手が、膝元に落ちるスライダーと外角高めの速球でイ・スンヨプを2打席連続三振に仕留めた例を挙げ、「膝元に落ちる変化球を決め球にされる」と弱いようだと紹介した(朝鮮日報日本語版2006年4月28日付「野球 弱点バレた? イ・スンヨプ絶不調」)。

 

 

 

 

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しかし、5月になると、イ・スンヨプはの打率は再び上がり始める。

そして、5月後半なると、セ・リーグとパ・リーグの交流戦が始まり、彼の所属する巨人も、2005年まで彼が所属していたロッテと対戦することになった。

 

 

 

 

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となると当然、ロッテは里崎を先発捕手に起用し、里崎は自軍の投手をイ・スンヨプの弱点、つまり絶対に打てないコースを突く投球をするようにリードする。両球団の交流戦は巨人側の本拠地、東京ドームでの3連戦が最初だったが、里崎にはイ・スンヨプを抑える自信があったはずだ。

 

 

 

 

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ところが、その3連戦の初戦、5月26日、意外なことにイ・スンヨプは打てないはずのコースの投球(筆者の記憶では外角高めの速球)をもののみごとに打ち返し、二塁打を放った。そしてその翌27日、翌々日28日には2日連続で本塁打すら放った。つまり、2006年4月まで打てなかったコースが、2006年5月以降、突然打てるようになっていたのだ。

 

 

 

 

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その後の2006年のシーズンでは、イ・スンヨプはそのまま打ち続け、シーズン終了時には、年間本塁打が41本に達し(打率.323、108打点)、押しも押されもせぬ、巨人の四番打者になっていた。この年、巨人の試合はほぼ全試合、韓国でTV中継されていたので、彼は祖国のファンに対して十分に面目を保つことができた。

 

 

 

 

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この年のシーズン終了後、巨人はイ・スンヨプと、2010年までの4年間で年俸などの総額が30億円という、松井秀喜外野手(現ニューヨークヤンキース)の巨人時代の年俸をも上回る破格の契約を結んだ(スポーツナビ+スポーツ病療養記2006年11月6日「イ・スンヨプの大型契約に物申す!!」)。

 

 

 

 

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【スポーツナビ+気になるスポーツ情報2006年12月7日「年俸についての不平等」は、MLBで標準化されている「守備位置別の打撃成績評価」を紹介しつつ、守備の簡単な一塁しか守れないイ・スンヨプが4年で30億円もらえるなら、守備の難しい遊撃手を務める巧打者の井端弘和(中日ドラゴンズ)などはそれ以上の金額がもらえるはずだ、と述べており、興味深い。】

 

 

 

 

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ところが、2007年シーズンが始まると、イ・スンヨプは2006年ほどには打てなくなった。打率が低迷し、打順を四番から六番に下げられ、夏にはとうとう2軍に落とされた。その後、1軍に復帰し、打順も四番に戻ったが、チャンスに弱く、とくに一流投手に弱く、2006年に見せたような打棒を披露することはできないままに終わった。

2007年シーズン終了時の成績は、打率.274、74打点、本塁打30本に終わり、パ・リーグにいたとき、つまり七番打者だったときの成績に戻ってしまった。

 

 

 

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つまり、イ・スンヨプが巨人の四番打者にふさわしい打力(打率.300、本塁打40本前後)を持っていたのは、2006年5月からシーズン終了までの、たった5か月間だけなのだ(これを「一流時代」と呼ぶことにする)。それ以外の期間(「二流時代」とする)は、打率.280以下、本塁打30本以下の、六番打者か七番打者にふさわしい力しか発揮していない。

この理由は至って簡単で、「二流時代」の彼は、制球力のある日本の一流投手に、内閣低め(膝元)と外角高め(ボールになるコース)に、変化球と速球を投げ分けられると、いとも簡単に三振する「扇風機」だからだ。

 

 

 

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●世界の大砲?●

2007年のシーズンを「二流」として終えたイ・スンヨプは、怪我を理由に、2007年12月に台湾で行われた北京五輪野球アジア地区最終予選(アジア野球選手権)では、韓国代表としての出場を断った。

 

 

 

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が、イ・スンヨプは、アジア最終予選で2位になった韓国が出場した、2008年3月7〜14日の世界最終予選には、韓国代表チームの四番打者(または三番打者)として参加した。

 

 

 

 

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台湾で行われたこの大会には、韓国、台湾のほか6か国(地域)が出場し、合計8か国で残り3か国になった北京五輪本大会出場枠を争ったが、韓国は南アフリカ共和国、オーストラリア(豪州)、メキシコ、スペイン、ドイツに5連勝してあっさり本大会出場権を獲得した(国際野球連盟Web 2008年3月14日「2008 FINAL OLYMPIC QUALIFYING TOURNAMENT HOME」)。

 

 

 

 

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イ・スンヨプも、最終戦の台湾戦を含むほとんどすべての試合でヒットを打ち、23打数11安打12打点、打率.478、本塁打2本(二塁打3本、4三振)の好成績を上げた(国際野球連盟Web 2008年3月14日「2008 FINAL OLYMPIC QUALIFYING TOURNAMENT TEAMS KOREA」)。

 

 

 

 

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しかし、ただ1試合、カナダ戦ではまったく打てず、4打数0安打3三振と、まさに「扇風機」状態だった(国際野球連盟Web 2008年3月13日「2008 FINAL OLYMPIC QUALIFYING TOURNAMENT SCORES BOX_SCORE KOREA 3-4 CANADA」、中央日報日本語版2008年3月14日付「野球 韓国、カナダ本塁打2本で6連勝ならず」 )。

 

 

 

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 (敬称略)

 

 

 

 

 

 

 

 

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【この問題については次回以降も随時扱う予定です。
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